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徳川家康のスパイ説

 投稿者:幸村薩摩落ち伝説の作者  投稿日:2017年10月 9日(月)09時55分38秒
  徳川家康のスパイ説.  田安徳川家・第11代当主・徳川宗英(むねふさ)氏は、次の様にスパイ説を主張する。
●根拠1:関ヶ原合戦で敗れての流刑地・九度山での処遇が甘すぎる。
 通常、流刑は、家臣や家族と分離され、遠く離れた島などに流される。
 ところが幸村は、大坂城から僅か50㎞しか離れていない九度山に流された。父・昌幸と一緒、妻も一緒、家来もいたし、子供も沢山生まれた。
 おかしな話だ。流刑としての処遇が甘すぎる。家康と幸村の間に、何か親密な関係があったのではないか。

●根拠2:家康と幸村は親戚だった。
 幸村の娘「おかね」は、石河光吉という武将に嫁いだ。
 光吉の兄・石河光元には「お亀」という側室がおり、その「お亀」の美貌に惚れ込んだ家康が、光元から「お亀」を譲り受けて自分の側室にした。「お亀」は家康の子を生み、その子が後の尾張徳川家の祖・徳川義直である。
 つまり、真田幸村は徳川家康の実子・徳川義直の大叔父であり、血の繋がりこそないが、家康と幸村は親戚だったのだ。
 そもそも真田家は、次々と主を変える事で、戦国の世を生き抜いてきた。世間ではそれを「表裏比興の者」(表裏があり、信用できない人物)と称した。
 そうした真田家の歴史を考えるに、幸村が家康の意向を汲んで動いた事はあり得る。
 こんな逸話もある。大坂冬の陣において、家康の孫・松平直政が僅か500の兵で真田丸に突っ込んで来た。その時幸村は、「天晴れ若武者」と叫び、直政を見逃したという。その際、幸村が直政に投げ付けたという軍扇が、現在も遺されている。
 先に記した徳川宗英氏は、「軍扇を投げ付けたのは、幸村が徳川方に何かを伝えたのではないか」、と考えている。「この戦(大坂冬の陣)、ひとまず終了」、との意を表したとも考えられる。
 その後の家康と幸村の間に何があったかは分からないが、講和が成立して冬の陣は終わった。
 翌年の大坂夏の陣で、幸村は一兵士に討ち取られ、49年の生涯を閉じた。
 のち家康は、幸村を討ち取った兵士と対面した。その際、その兵士に労(ねぎら)いの言葉どころか、「お前などに、幸村を討ち取れる筈がない」、と言い放ったという。その言葉に、どんな思いが込められていたのであろうか。

http://http://www2u.biglobe.ne.jp/~sanada/sanada/sanada/satsuma.html

 
 

伊達政宗と密約はなかった

 投稿者:幸村薩摩落ち伝説の作者  投稿日:2017年10月 9日(月)09時49分44秒
   伊達政宗と真田幸村の密約は作り話なのに、どうしてどうどうと唱えているのか疑問に思い、インターネットで調べたら、次のように出ていました。
2016年の1月8日、T 真田さんにメールで質問した内容 及びそのご回答。核心部分のみ記します。
「宝島社発行で 貴殿監修の「真田幸村の真実」と言う本の中で「幸村が家康を亡き者にしてくれるなら幸村の子供たちを引き取り育てよう、との密約があったのだ」と記されています。それは 何かの間違いではないでしょうか。夏の陣 当時の状況は「1605年には秀忠が将軍となっており、家康が亡くなっても幕府は続くので、伊達の天下は考えられない。そんな 密 約 をする理由も無かったものと思う。また、伊達は、半年前の冬の陣の功により、伊予宇和島 10万石を家康から貰っており、政宗の二男 忠宗に秀忠の娘・振姫を妻とする話が持ち上がっていた。家康とは伊達家は うまく行っていたので この点からも密約は 有り得ない」。「普通の家族の言い伝え」の方法は 親父、或いは 祖父が 子や孫に言い伝える事によって正確に伝わります。しかし、幸村の場合は 戦場にいる。長男の大助でさえも 城の中である、ましてや敵の大将と密約など出来るわけがありません。又、その密約の内容は、密約なので、誰も分らないのは、当然ですが、その密約があったと伝わっていること自体がデタラメです。幸村、大助、大八は 死んでおり、誰が貴殿の先祖としている守信に伝えたのでしょうか。守信と大八は 別人なのです」と。
以上のような質問をしたら T さんは、応えることが出来ず「とんだいいがかりとしか思えません。失礼にも程があります。以後、メール等はお断りします。真田」と。真田幸村の本当の子孫なら 堂々と回答出来るものです。
 こんな人間が真田幸村の薩摩落ちを否定するとは論外です。
 私の父の話によると、「5月6日は戦いらしい戦いもなく、公の正史である水戸光国の「大日本史」から記録が削除され、空白の一日と呼ばれた。水戸光国の大日本史が抹殺した歴史を、頼山陽の「日本外史」では違った角度から捉え直している。この日に何らかの談合があって、為政者である徳川幕府は、ひたすらそれを隠そうとしたのかもしれない」ということです。父は真田幸村の子孫・難波周八、田原武雄、池田清元衆議院議員、山川町の秀頼の子孫・為義などから話を聞いたそうです。父が大勢の人から聞いたことを私が口述筆記し、それに基づき、いろいろな本や鹿児島の資料や関係各所に問い合わせた結果、記述したのが「幸村薩摩落ち伝説」です。よって、貴殿のように、古文書とつじつまが合わないことはないです。

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幕末と鹿児島眞田家

 投稿者:幸村薩摩落ち伝説の作者  投稿日:2017年10月 1日(日)19時06分7秒
   もともと島津義弘は徳川家康の味方だった。島津義弘は、関ケ原の戦いの前、徳川家康に味方しようとして伏見城に申し入れたが、鳥居元忠がこれを信用せず申し入れを断ったため、やむを得ず、西軍についた形となった。しかし、徳川家康とは戦う気がなかったので、石田光成の督促にも応じず、最後まで徳川家康と戦わなかった。島津義弘は、逃げるとき、後ろに逃げるとやられるので、前に逃げた。いわゆる「島津の退き口」と言われるものです。後になってからもこの点を主張するとともに、国境の警備を固くしたため、成り行きでしかたなく西軍となったものの、本領を安堵されました。眞田幸村・大助親子や豊臣秀頼・国松親子や木村重成らを薩摩に逃がしたのも、徳川幕府に改易されそうになった時の最後の隠し玉として使おうとしていた。それまでは表面上はこれを秘密にしていた。眞田幸村の長男・眞田大助幸昌も島津家の養子に入れて隠していた。幕末も、最初は徳川幕府についていたが、諸外国から日本を守るため、長州と共に討幕を断行した。決して、徳川幕府を目の敵にしていたわけではない。討幕は、眞田家とは関係なく、西郷隆盛や大久保利通らが勝手にやったものです。
 薩摩藩士は徳川幕府の無理難題に苦しめられた。しかし、江戸時代中期、島津の家臣たちは、幕命によって施工された木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の分流工事を行う宝暦治水事業の過程で、工事中に薩摩藩士51名自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害した事件があった。当時すでに66万両もの借入金があり、財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え、薩摩藩は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日幕府へ送った。平田は、その後も大坂に残り工事に対する金策を行い、砂糖を担保に7万両を借入し同年閏2月9日美濃に入った。1754年(宝暦4年)4月14日。薩摩藩士の永吉惣兵衛、音方貞淵の両名が自害した。両名が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることがわかり、その抗議の自害であった。以後合わせて61名が自害を図ったが平田は幕府への抗議と疑われることを恐れたのと、割腹がお家断絶の可能性もあったことから自害である旨は届けなかった。工事完了後、借金を個人名義で行った薩摩藩総指揮の家老・平田靱負も自害した。こうしたことがあったことから、薩摩藩士は徳川幕府に対して恨みを持つようになり、幕末に薩摩藩士が倒幕運動に走った一因となった。
 眞田幸村の薩摩落ちについては眞田博明さんも認めていました。香川眞田家の眞田博明さんは眞田幸村の薩摩落ちを認めていて、鹿児島県南九州市頴娃町別府・大川に住む父の再従弟・眞江田幸一の家に来たことがあります。また、眞田博明さんは私の勤めていた労働省労政局労働組合課を訪ねてきたこともあります。私が学習院の桜友会名簿に載っている松代眞田家当主・眞田幸俊氏にも家系図を送ったら、代わりに眞田博明(眞田六文会会長)氏が労働省労働組合課に訪ねてきました。何度か訪ねてきたとき、いろいろ話し、眞田一門の系図や鹿児島の古文書「薩摩風土記」などを同氏からいただいた。同氏によると、当時、東京都文京区に住んでいた眞田博明氏は、総理府を定年退職後、観光旅行のつもりで、眞田幸村や豊臣秀頼や国松が落ち延びた場所(大分県の日出や鹿児島の谷山や頴娃、秋田の大館など)を旅行した。頴娃町を訪れたとき、教育委員会の方に眞江田幸一(曾祖父・難波周八の弟・眞江田三左衛門の孫)の家を案内してもらった。眞田幸村の墓があるというので、行こうと思ったが、夜遅くなって暗くなってきたためいけなかった。事情をよく知らない眞江田幸一は「御本家に聞いてくれ」と言うばかりで埒が明かなかった。なお、私の父・濵﨑秀男は眞江田家の嫡流である。眞田博明氏は、同氏の尽力により、そのとき撮った映像をNHKの番組「歴史誕生」(眞田博明監修)で放映するので、それを知らせに来た。平成2年、NHKの番組「歴史誕生」で、日本三代英雄(源義経、坂本龍馬、眞田幸村)不死伝説の一つとして、眞田幸村の薩摩落ちが紹介された。眞江田幸一とその母・フクが映像で紹介された。私が母の法事で鹿児島県川辺郡知覧町塩屋に行った際、眞江田幸一の自宅を訪ねたら、母・フクは「頴娃町で評判になった」と喜んでいました。真田徹は面倒くさいので眞田幸村の薩摩落ちを否定しているが、真田徹に眞田幸村の薩摩落ちを否定されるいわれはありません。
 江戸初期から中期、後期まで幸村の子孫と思わせるものは何も無く、江戸時代に「眞田三代記」が流行り、眞田幸村が人気となると、僅かに幕末になり、幸村人気を意識しだして、守信の墓に銭紋が付いていたので、明治5年の墓には、幸村10世真田源田左衛門滋野幸清と刻んだ。真田大八が夭逝していると云う真田本家の正史等が伝わっていない時代だから幕末の子孫が間違えた。そして、大正時代に講談で「眞田十勇士(眞田三代記がもとだが、猿飛佐助や霧隠才蔵などが登場し、講談師による完全な創作)」が流行ると、それに便乗しようとして、大正、昭和の時代になり、真田本家の正史、片倉代々記などの書物が出るに及び、つじつまを合わせざるを得なくなり、「真田大八死亡の噂を流した」とか、「系図の偽装(叔父の子孫)」とか、「子供5人の保護説」とか、明治から昭和生まれの人が記した家系図を江戸時代から伝わる系図と言い出した。
 仙台真田家の真田徹は「幸村と政宗は年齢がほぼ同じです。政宗が“家康の首を取ってくれたら、なんでもしてやる”と幸村に持ちかけ、ふたりのあいだに密約があったと見ています。家康が亡くなれば、政宗は自分が江戸幕府を牛耳れると思っていたでしょうからね。惜しくも幸村は家康の首は取れませんでしたが、家康を心胆寒からしめるまで追い詰めました。『いい夢を見せてもらった』と政宗は満足し、幸村の子どもを引き取ることを許したというのが隠された歴史ではないかと考えています。最終的には幸村の子ども五人、次男の大八、三女の阿梅、それに六女・七女・八女が片倉小十郎の元に落ち着きます」と言っているが、真田徹はこれまでもいろいろ話をねつ造してきた。真田徹の眞田幸村と伊達政宗の密約説は、徳川家康を苦しめた眞田幸村が関西や東北で人気を博したが、その流れに乗ったものと考えられる。徳川家康を敵視する関西や東北の人間は目が曇っています。私が生まれた鹿児島では西郷隆盛が人気で、眞田幸村は人気がありません。私が育った岐阜県では三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)が人気で、眞田幸村は人気がありません。だから、眞田幸村を客観的にみることができます。そもそも「伊達政宗が眞田幸村の子5人(次男の大八を含む)を保護した」という話が真田徹の作り話であり、法螺吹きがエスカレートしていると言わざるを得ない。
 私の父は「大坂夏の陣には空白の一日があり、何らかの談合が行われた可能性がある」と言っていました。5月6日は戦いらしい戦いもなく、公の正史である水戸光国の「大日本史」から記録が削除され、空白の一日と呼ばれた。水戸光国の大日本史が抹殺した歴史を、頼山陽の「日本外史」とは違った角度から捉え直している。この日に何らかの談合があって、為政者である徳川幕府は、ひたすらそれを隠そうとしたのかもしれない。実際、徳川宗英さんの言うような奇妙なことがいろいろあったようです。私は、真田幸村が薩摩落ちし、頴娃町で暮らしていたとき、幸村の世話をしていた百姓の娘に産ませた子・瓢左衛門の子孫です。私の父は、曾祖父の難波周八や郷土史家らか聞いた話として、大坂夏の陣に空白の一日があり、そのときに何らかの談合が行われた可能性があると言っていました。最初から真田幸村が徳川家康のスパイだったかどうかはわからないが、そこに何らかの談合があったらしい。
 頴娃村郷土誌によると、眞田幸村は、雪丸で島津家から与えられた居宅に住み、頴娃摺木在の百姓某の娘に身の回りの世話をしてもらっていた。幸村は、この女性と恋仲になり、女性は身ごもったが、落ち武者の身であり、申し訳ないと思い、頴娃大川の浦人某に嫁がせた。この結果生まれた子が、私の先祖・瓢左衛門(ひょうざえもん)である。昌彦叔父によると、前の難波家の墓に「瓢左衛門、周八、佐平次、菊蔵、武右衛門、佐平次(2世)、菊蔵(2世)、周八(2世)」と先祖代々の系図が刻まれていた。難波家の墓はその後立て直された。江戸時代後期の眞江田菊蔵(2世)の子は市左衛門、周八(2世)、三左衛門、児玉ヨシなど5~6人の女子でる。難波周八(2世、旧姓眞江田)の子は常幸(カナダ)、元幸、秀幸、幸世、幸省、利幸、テイ(夭折)である。濵﨑(旧姓難波)秀幸の子は昌幸(夭折)、秀男、春子、昌隆(軍属・戦死)、昌彦、昌治(存命中)である。秀男の子は秀文、秀達、秀武(中絶)、秀彰である。秀文の子・原田星良は日本大学芸術学部演劇学科劇作コースに通い、劇団東俳優の劇団員でもある。なお、私も日出藩大19代当主・木下崇俊さんも眞田幸俊さんも徳川宗英さんも学習院出身です。私の弟も眞田幸俊さんも徳川宗英さんも慶應義塾大学出身です。意見は一致している者同士です。私は、昨年、厚生労働省本省を定年退職したばかりです。兄は、早稲田大学商学部卒、コロンビア大学大学院経営学修士(MBA)で、バイオ二ア(株)を退職しました。弟は、慶應義塾大学経済学部卒で、カシオ計算機(株)にまだ勤めています。

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眞田博明も認定していた

 投稿者:幸村薩摩落ち伝説の作者  投稿日:2017年 9月25日(月)17時58分36秒
    私が学習院のOB(桜友会)名簿に載っている松代眞田家(旧伯爵家)当主・眞田幸俊氏にも家系図を送ったら、当主ではなく眞田博明(真田六文会会長)氏が、労働省労働組合課に訪ねてきた。何度か訪ねてきたとき、いろいろ話し、眞田一門の系図や鹿児島の古文書「薩摩風土記」などを同氏からいただいた。同氏によると、当時、東京都文京区に住んでいた眞田博明氏は、総理府を定年退職後、観光のつもりで、眞田幸村や豊臣秀頼や国松が落ち延びた場所(大分県の日出や鹿児島の谷山や頴娃、秋田の大館など)を旅行した。頴娃町を訪れたとき、教育委員会の方に眞江田幸一(曾祖父・難波周八の弟・眞江田三左衛門の孫)の家を案内してもらった。眞田幸村の墓があると言うので、行こうと思ったが、夜遅くなって暗くなってきたためいけなかった。事情をよく知らない幸一は「御本家(難波本家の難波利幸=難波周八の末子)に聞いてくれ」と言うばかりだった。なお、家系図については、眞田博明氏から過去帳で年代を調べるように言われたが、難波昌幸(父の従弟、私と同じ年)に依頼している。なお、私の父は眞江田家の嫡流である。眞田博明氏は、同氏の尽力により、そのとき撮った映像をNHKの番組「歴史誕生」で放映するので、それを知らせるため来た。平成2年、NHKの番組「歴史誕生」で、日本三代英雄(源義経、坂本龍馬、眞田幸村)不死伝説の一つとして、眞田幸村の薩摩落ちが紹介された。1分間ほどでしたが、鹿児島県揖宿郡頴娃町別府・大川に住んでいた眞江田幸一(父の再従弟)とその母・フク(字幕は妻・フクと間違っていた)が映像で紹介された。ただし、フクは幸一の母親であり、妻はのり子である。私が法事で鹿児島に行った際、眞江田幸一の自宅を訪ねたら、母・フクは「頴娃町で評判になった」と喜んでいた。両名とも亡くなったが、幸一の妻・のり子は存命で、魚屋は廃業し、今では、のり子と二人の息子の家族しか眞江田姓の者はいない。このように、眞田六文会会長の眞田博明(香川眞田家)さんも眞田幸村の薩摩落ちを認めていた。

 「眞田十勇士」が講談で流行っていた頃、学者や研究者が大勢来た。その時、難波利幸大叔父は、薩摩落ち後の眞田幸村と眞田信幸の手紙のやりとりしたときの手紙を見せたが、その学者はこの話を知らなかったため見てくれなかった。難波利幸の末子・難波昌幸は、「(薩摩落ち後に真田幸村と松代藩主・真田信之が数回やりとりした)手紙がある」と言っており、その手紙が学者によって検証されることを期待している。眞田幸村研究の第一人者である小林計一郎(信州大学名誉教授、長野県郷土史家協会名誉会長、俳人・小林一茶の子孫)は「眞田三代軍記」の中で薩摩落ち後の眞田幸村と眞田信幸の手紙のやりとりについても記述している。鹿児島生まれで岐阜育ちの私は、幼少の頃、父に眞田幸村の子孫と言われたが、眞田幸村など聞いたことがなかった。私が小学校低学年の頃、眞田十勇士をテレビで放映していたが、架空の人物である猿飛佐助や霧隠れ才蔵ばかり出てきて、眞田幸村は滅多に出てこなかった。年月が経ち、私は、学習院大学卒業、労働省入省して10年くらいした30歳代半ば頃、弟が父に「僕らは親戚を全く知らないので、紙に書いてくれ」と頼んだら、父が家系図を書いてそのコピーを3兄弟に送付してきた。私もこれを機に、いろいろな本で調べたり、父の話を口述筆記したり、父の再従弟・平木場(前知覧町助役)に鹿児島の資料を送ってもらったり、各方面に問い合わせたりした。そしたら、眞田幸村が長野出身だと分かったが、鹿児島生まれの私が何故、真田幸村の子孫なのか分からなかったので、さらに調べたら、眞田幸村が鹿児島・頴娃に落ち延びたことが分かった。なお、私は、昨年、厚生労働省本省を定年退職した。

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法螺吹き真田徹がエスカレート

 投稿者:幸村薩摩落ち伝説の作者  投稿日:2017年 9月25日(月)13時48分10秒
   眞田幸村の薩摩落ちに関しては、多数の古文書が存在しても、完全に証明できるまでは「伝説」としか言わないでいる。伝説が事実と確信できるまで待っている。
 ところが、古文書は大八は死亡し、片倉何某に保護されていないと否定しているにもかかわらず、真田徹は口伝と称して大八が片倉何某に阿梅とともに保護されたと強弁している。証明どころか根拠となる古文書さえ存在しない者が眞田幸村の薩摩落ちを否定するなんてとんでもない話だ。しかも、眞田幸村と伊達政宗の密約をねつ造するなど根拠となる古文書どころか論拠すらなくただそう言っているだけである。江戸初期から中期、後期まで幸村の子孫と思わせるものは何も無く、僅かに幕末になり、幸村人気を意識しだして、守信の墓に銭紋が付いていたので、明治5年の墓には、幸村10世真田源田左衛門滋野幸清と刻んだ。真田大八が夭逝していると云う真田本家の正史等が伝わっていない時代だから幕末の子孫が間違えた。そして、大正時代に講談で眞田十勇士が流行ると、それに便乗しようとして、大正、昭和の時代になり、真田本家の正史、片倉代々記などの書物が出るに及び、つじつまを合わせざるを得なくなり、「真田大八死亡の噂を流した」とか、「系図の偽装(叔父の子孫)」とか、明治から昭和生まれの人が記した家系図を江戸時代から伝わる系図と言い出した。そんな法螺吹きに眞田幸村の薩摩落ちを否定されるいわれはない。

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大八生存説ねつ造について

 投稿者:ゆきりん  投稿日:2017年 9月23日(土)20時42分23秒
  「大八生存説ねつ造について」幸村薩摩落ち伝説の作者様に対する意見を聞きたい。  

真田徹の大八生存説ねつ造

 投稿者:幸村薩摩落ち伝説の作者  投稿日:2017年 9月20日(水)03時10分45秒
   真田徹は真田幸村の薩摩落ちを否定しているが、根拠となる歴史資料が多数存在する。これに対し、真田徹の説は根拠となる資料がなく、口伝としており、都合の悪い資料が出る度、つじつま合わせに話をねつ造してきた。昭和になってからは新漢字しか使用を認められていない。戸籍上の字が新漢字の「真田」なら昭和になってから「真田」と名乗った証拠である。眞田博明さんも眞田幸俊さんも旧漢字の「眞田」である。私も旧漢字の「濵﨑」である。
 『左衛門佐君伝記稿』」では「真田大八は 夭折」と記されている。又、玉露叢(1598年~1681年迄の記録書)にも「真田大八は京都にて早世」と記されている。真田徹の詭弁は根拠を欠いたため、口伝としているが、食い違う資料がでる度、前言を翻し、新たな話をねつ造することを繰り返している。
 真田徹の話には根拠となる記録がなく、昭和になってから話をねつ造したものであることが明らかとなるにつれ、真田徹の話には疑義が持たれている。しかも、真田徹の先祖は片倉守信の系統に途中から養子で入ったとしている。ということは、眞田幸村の血をひいていないことはもちろん、片倉守信の血さえひいていないことになる。にもかかわらず、眞田幸村の子孫と名乗っている。これらが近年、問題となっている。そんな真田徹が真田幸村の薩摩落ちを否定する資格などあるはずがない。
 「片倉守信が真田大八でない9の理由・白石市の教育委員会が訂正した」では、概略、次のようにされている。
従来 「片倉守信の墓を真田大八」としていた間違った看板を2,016年秋に白石市の教育委員会が訂正しました。そもそも 大正14年に出版された白石町誌を見ると、「当信寺には 大八の墓があるとは 伝わっていなかった事がわかる(江戸時代から大正時代まで)」。昭和8年に出版された仙台人名大辞書に記された「真田の項のデタラメ」から徐々に そのデタラメが浸透して行って 昭和55年の円柱の案内に至ったものである。結論としては、昭和 平成の時代に片倉守信=真田大八としていたことが明らかな間違いで、全くの別人である事が分る。この事は「守信を大八としてきた仙台の子孫と称する方の説が明らかな間違い」と言う事である。
 真田家の正史『真田家御事蹟稿』のうち、信繁(幸村)の伝記である『左衛門佐君伝記稿』」では、「真田大八は夭折と記されている。又、玉露叢(1598年~1681年迄の記録書)にも「真田大八は京都にて早世」と記されている。蓮華定院の報告書通り、真田大八は 大阪の陣の前に亡くなっている。尚、「実は仙台に生き延びた」と記してある本は「仙台人名大辞書」を参考に記されたものであり、2,016年、真田丸で研究が進み、その大辞書の真田の項はデタラメが判明している。もし、大八が夏の陣の時まで 存命であっても、母親と一緒に居らず、徳川にとっての大罪人の幸村の子では食事もできず、幸村の息子と云う事が分れば殺される時代だった。そう言う状況の中で、阿梅が片倉重綱の後妻に入るまでの8年間 どうやって 生き永らえたのか。「仙台に生きた」と云うのなら その証拠が必要だ。大八は 早世しているので その証拠があるはずがない。
 当時の阿梅、当信寺の住職、及び守信の子(辰信)の対応が「守信を幸村の子として扱っていなかった」。
 幸村の子孫と称する人には江戸時代初・中期の古文書の記載は何も無く、言い伝えだけであり、その言い伝えの殆どが史実と異なっている。以上のように間違った言い伝えによると、250年後の明治5年の墓石(真田幸清筆子塚碑文)も間違って彫られてしまう。彫った人は 真田の正史、片倉代々記、仙台叢書などの当時の書物を見てないので間違ってしまった。夏の陣時、娘1人が略奪された事が片倉代々記、及び 真田の正史に記載されている。男の幼児では 足手まといになるだけで略奪する価値も無いので、真田大八の略奪も無かった。よって、仙台に居た片倉守信は もともと仙台の人である。当然 大八ではなく 別人である。尚、娘は 数年後に幸村の娘と判明した。その他の江戸時代の公な古文書には 真田大八が大阪の陣後に 生きていたと云う記録は無い。江戸時代に記された仙台叢書に娘を連れ帰った事が記されている。言い伝えがこんなに違うと云う事は幸村の子孫と称する方は幸村の子孫でないと言う事である。又、言い伝えが無かったとも言える。平成になって「子供5人の保護」を記している本があるが それは作り話であり、「保護」と記している本は間違いである。
 大阪の陣後、家康は 幸村の妻子の捜索を命じた。すぐに妻竹林院と女子が見つけ出され京都の家康に引き渡された時、真田大八は 居なかった。既に大阪方から寝返った片桐などから妻子の人数などの情報を得ていた家康がそれ以上の捜査を命じなかったのは真田大八は 既に死亡していたと云う確認が取れたからである。神君家康が詮議をして 許されたことを後になって外様大名の藩士の事で幕府が「幸村の子ではないか」と咎めることは老中といえどもしません。
 守信が幸村の息子なら、父 幸村の墓を建てているはずである。当然、守信が幸村の子であれば、阿梅の近くに居て連絡も取りあえていたのだから、既に壮年になっている男の守信が位牌等を引き継いだはずである。嫁に行った阿梅にさせるはずはない。当時、阿梅は守信を竹林院の子とは 思ってなかったから自分が母親の位牌を龍安寺から引き取った。「阿梅の母 竹林院が亡くなり(1649年)、京都の名刹 龍安寺に葬られた事を知った阿梅が、両親の位牌を当信寺に安置した」と寺の記録にある。即ち、守信は 幸村の子ではない。又、当信寺にある位牌は、幸村夫妻及び阿梅の位牌は並んでいるが、守信のが無いのは 10年前に亡くなった守信を阿梅が弟と思っていなかったから位牌を作らなかったし、阿梅が亡くなった後は阿梅の縁者或いは 住職が守信は幸村の子と言う認識が無いから阿梅だけのを作り守信の位牌は作らなかった。
 守信は 白石の月心院の檀家になっていない。江戸初期から中期、後期まで幸村の子孫と思わせるものは何も無く、僅かに幕末になり、幸村人気を意識しだして、守信の墓に銭紋が付いていたので、明治5年の墓には、幸村10世 真田源田左衛門滋野幸清と刻んだ。真田大八が夭逝していると云う真田本家の正史等が伝わっていない時代だから幕末の子孫が間違えた。そして、大正、昭和の時代になり、真田本家の正史、片倉代々記などの書物が出るに及び、つじつまを合わせざるを得なくなり、真田大八死亡の噂を流した、とか、系図の偽装(叔父の子孫)とか、明治から昭和生まれの人が記した家系図を江戸時代から伝わる系図と言い出した。その証拠に系図の真田の真の字の上の冠部分を十にしている。明治・江戸時代の人は カタカナのヒ、即ち「眞」を使った。新字の真を使っていると云う事は、昭和以降に書かれた系図と云う事である。
 当信寺にある墓も証明している。守信は片倉一族の分家の四男と言う縁で、当信寺に葬られた。その証拠に「片倉四郎兵衛」と墓石に刻まれている。もし、守信が大八なら、阿梅及び辰信は、幸村が眠る月心院に墓を作り葬った。つまり、明白に守信は「幸村の子ではない」と言うことである。尚、当初の守信の墓は片倉一族の墓近辺に有り、阿梅の墓とは別々の所にあった。(昭和の後半に墓の整理で並立された)守信が弟の大八でないので、阿梅の墓は離れたところに葬られた。息子なら真田二郎兵衛守信、或いは片倉(真田)守信と真田の痕跡を墓石に彫ったはずである。人は臨終に際して真実を語るものである。
 きりがないので、これくらいにしておきますが、真田徹の主張を否定する証拠は数限りなくあります。

 一方、真田幸村の薩摩落ちについては、多数の歴史資料が残されています。

 5月6日は戦いらしい戦いもなく、公の正史である水戸光国の「大日本史」から記録が削除され、空白の一日と呼ばれた。水戸光国の大日本史が抹殺した歴史を、頼山陽の「日本外史」は違った角度から捉え直している。この日に何らかの談合があって、為政者である徳川幕府は、ひたすらそれを隠そうとしたのかもしれない。
 大阪の天王寺区六万体町に元真田幸村の邸宅と称する所があって、そこに真田山に通じる長い抜け穴があることが発見されている。後述のように、真田幸村や豊臣秀頼らが大阪城を脱出するとき、ここを使ったのかもしれない。そして、影武者が大勢現れた大阪夏の陣において、討ち取られたのは影武者の一人にすぎないと考えられる。幸村の影武者は「我こそは真田左衛門輔」と、大阪城にいた大助の影武者は「真田幸村の倅」とそれぞれ大声で名乗っていた。影武者を使ったくらいだから、どちらも本人ならむしろ身分や名前を隠すはずである。写真のなかった当時、まだ無名だった真田幸村や真田大助について本人かどうかとうとう確認できなかったというのが実情である。
 5月7日の大坂夏の陣最後の決戦では、ここかしこに「真田左衛門佐(幸村)」を名乗る武将が現れ、徳川勢を惑乱する中、幸村自身は家康本陣に突っ込み、あと一歩のところまで家康を追い込んだが、精根尽き果て、田の畔に腰を下ろしているところを、越前藩・松平忠直隊の鉄砲足軽頭・西尾久作(仁左衛門)に首をとられた(『慶長見聞書』)。この幸村最期の地を「安居の天神の下」と伝えるのは『大坂御陣覚書』であるが、『銕醤塵芥抄』によると、陣後の首実検には幸村の兜首が3つも出てきたが、西尾久作のとったものだけが、兜に「真田左衛門佐」の名だけでなく、六文銭の家紋もあったので、西尾のとった首が本物とされたという。しかし、『真武内伝追加』によると、「実は西尾のものも影武者望月宇右衛門の首であったとのことで、西尾の主人・松平忠直は将軍秀忠の兄秀康の嫡男であり、その忠直が幸村の首と主張する以上、将軍にも遠慮があって、否定することはできなかった」と記している。
 幸村の首も首実験にかけられ、徳川方についていた叔父の真田信尹が確認しましたが、「面相が変わっている為断言できません。幸村の額にこのような傷はなかった。そう答える」彼に家康は「二度も幸村に会っている癖に断言できないのか」と激昂します。でも、信尹にも言い分があって、彼が幸村に会ったのは夜でしかも信尹は老眼でした。結局は口の中の欠けていたとされる歯の数や、首がつけていた兜が確かに幸村と一致したので首は確かに幸村と断定されました。
 大坂の陣が始まる前に、豊臣秀頼は、“島津の退け口”で勇名を馳せた島津義弘に丁重に出陣を要請したが、断わられている。というものの、過去のいきさつもあって、島津義弘は、秀頼を救出することにした。おそらく、徳川に改易にされそうになったときの隠し球にしようとしたのかもしれない。島津の軍勢は西軍のために兵糧米500石を大坂城中に運び込み、その帰りに真田幸村・大助親子、豊臣秀頼、木村重成らを密かに救い出したのである。家康が河川の多い低湿地帯となっている大坂城の北西方面に手厚い陣を布けなかったことを幸いなことに、真田幸村や豊臣秀頼らは、島津家の家臣伊集院半兵衛が京橋口から忍び入れた小舟に乗り、急流に乗って一気に川口まで下って本船に移った。夏の陣の頃は梅雨の季節で、大和川(寝屋川)、平野川や淀川はなみなみと水をたたえ、その合流した急な流れに乗ることができた。
 この秀頼救出劇は、江戸中期の作家上田秋成が書いた『胆大小心録』の中で、大坂西町奉行所与力内山栗斎の女中から聞いた話として書かれている。その女中の母親は、18歳から木村重成に仕えていた女性である。また、『厭蝕太平記』『玉露証話』『備前老人物語』の中でも、これは述べられている。
 鹿児島県揖宿郡における伝承によると、真田幸村らは、和歌山方面から、島津の軍船に乗って、鹿児島湾(錦江湾)に辿り着いた。幸村は、この時、親鸞上人が書いた直筆の掛軸、秀頼から頂いた「おねぐい」の鞍などを鹿児島に持ち込んでいる。
 大坂落城のとき、大坂城の北、天満方面にはほとんど東軍の姿はなく、城兵は自由に逃げ出せる状態にあった。参戦したら、北方、西方に配置される予定だった西国方面の大名はほとんど戦に間に合わなかったのである。7日の夕方落城し、翌日にはすでに京都あたりへ大勢の落人が逃げのびていった。名のある武将で逃亡した者も少なくなかった。その中でも、長曾我部盛観、大野道犬治胤、秀頼の息女(7歳)、息子国松(8歳)らは逃亡中捕えられ、尼にされた秀頼の息女と国松を除き、みな殺された。
 国松は、北の政所ねねの実兄・木下家定(大分県の立石藩主)に預けられ、木下家定の三男・木下延俊として、そこから分家し、日出藩中興の祖となった。真田博明氏は、これを「公然の秘密」と述べていた。
 豊臣秀吉から豊臣姓を称することを許されていた真田幸村が秀頼とともに薩摩へ落ちのびたという噂は早くからあったらしく、「花の様なる秀頼様を、鬼のやうなる真田がつれて、退きものいたよ加護島へ」と京童に歌われた。実際には、秀頼は背丈が6尺5寸(1メートル97センチ)で、水戸泉のような体格をしており、酒好きであった。逆に、幸村の方が小柄な優男であった。
 当時のイギリス東インド会社の平戸商館長リチャード・コックスは、元和元年(1615)6月5日の日記に、「秀頼様の遺骸は遂に発見せられず、従って、彼は密かに脱走せしなりと信じるもの少なからず」と書きしるし、同じ日付で、皇帝(家康)は、日本全国に命を発して、大坂焼亡の際、城を脱出せし輩を捜索せしめたり、因って平戸の家は、すべて内偵せられ、各戸に宿泊する他郷人調査の実際の報告は、法官に呈せられたり」と書いている。
 また、コックスは、それから1カ月半後の日記になると、「秀頼は薩摩か琉球に逃げのびた」という報告を書きとめ、京都から来た友人(イートン)の「秀頼様は今なお重臣の5、6名と共に生存し、恐らくは薩摩に居るべしとの風聞一般に行はるる」との話も後世に伝えている。
 後に、オランダ商館長ティツィングの訳をクラプロートが増補した仏語版「日本王代一覧」によって、兵庫経由での薩摩落ち伝説は欧州にも紹介された。
  鹿児島外史によると、「秀頼は京橋口より軽船に乗り河港から大軍艦に乗り~(中略)~(薩摩)谷山村の在す」となっている。
 歴史研究・作家の加来耕三は、平成29年1月13日にテレビ東京の「古代ミステリーたけしの新世界七不思議大百科」で「汚穢船を使って堀へ出て堀からさらに小さい川に出て、幅が大きくなったら大きい船に乗り換えて、最終的に兵庫沖で薩摩の船に乗り換えたという話がけっこうありますから」と言っている。
 おそらく島津の軍船は太平洋側を航行したために徳川の探索に引っかからなかったのだろう。実際、幕末の西郷隆盛も徳川幕府の関所に引っかからないようにするため、太平側を航行し、大波で揺られ、難儀したことがあった。
 幸村の兄・信幸の子孫である信濃国松代藩主の真田幸貫は、この異説について調査を行い、その結果報告を見せてもらった肥前国平戸藩の前藩主・松浦静山の「甲子夜話」には「大坂落城の時、豊臣秀頼は潜かに薩摩に行かれたという一説あり。此の事、異域、「(中国)へも聞こえたると見えて、『涌幢小品』に秀頼が兵敗走して和泉に入る。城焚きて死す。また薩摩に逃げ入るという者あり…」と記述するとともに、「これに拠れば、幸村大坂に戦死せしには非ず」と、薩摩落ちを肯定する感想を述べている(『甲子夜話続編』)。
 天保14(1843)年に成立した真田家の家譜「先公実録」中に幸村の伝記「左衛門佐君伝記稿」があるが、その中に「大坂の陣のあとに流行った童歌で『花のようなる秀頼さまを 鬼のようなる真田がつれて 退きも退いたり加護島へ』というものがあり、鹿児島へ逃げ延びたとする童歌が存在する」「頴娃郡の浄門ケ嶽の麓に風来の山伏がおり、地元の人も恐れていたが、これが幸村だった」と書かれている。
   『採要録』によると、大坂落城後、鹿児島の南一里半ほどの谷山村(旧谷山市、現在の鹿児島市南部)へ、どこからともなく浪人が来て住みついた。島津氏から居宅を造り与えられ、日常の費用も与えて何不自由のないようにしておいた。同じころ、薩摩の浄門ケ岳の麓(揖宿郡頴娃町大字牧之内字雪丸)にも、風来の山伏が住みつき、また、加治木浦(姶良郡加治木町)にも浪人が来住して、この3人は時に打ちつれていることがあった。谷山にいたのは秀頼、山伏は真田幸村、加治木の浪士は木村重成で、秀頼の子孫は木下姓を称し、重成の子孫は木村姓を称している、としている。また、後藤又兵衛、薄田隼人なども薩摩に逃げた。
 肥前平戸藩主、松浦静山の随筆である『甲子夜話』、島津外史(鹿児島外史)、薩藩旧記などは、真田幸村について、次のように報告している。谷山時代に芦澤左衛門という名の八百屋がいたが、その家には、真田幸村の武具や刀となどの品々があり、一介の八百屋にこのようなものがあることを当地の人たちは不思議に思った。頴娃に着てからも、こうした品々を持ってきたため、彼がかの有名な真田幸村であろうと当地の人々は噂していた。当人は、決して真田幸村と名乗ったことは一度もなかった。なお、『甲子夜話』は、薩摩には島津外史(鹿児島外史)というものがあり、これは漢文で書かれており、いささか読みづらいとしながらも、これを引用しつつ、真田幸村や豊臣秀頼についての記録を残している。
 「谷山村郷土誌」(明治45年刊)によると、大坂夏の陣で戦死したはずの真田幸村が豊臣秀頼を護衛して堺の町に逃げ来たり、舟に乗って薩摩に亡命したとある。鹿児島の上福元町には秀頼の墓と伝えられる宝塔が福元一雄氏の自宅敷地内にある。鹿児島文化財審議会の木原三郎氏が調査・鑑定したところ、「秀頼の存命年代よりも古い時代の作であり、おそらく平姓谷山氏初代兵衛尉忠光の墓」だろうということである。秀頼・幸村生存説は怪しげな話であるが、秀頼には伊茶(渡辺五兵衛の娘)という側室との間にできた8歳になる国松がいた。この豊臣国松にも生存説がある。
  大坂落城の際、国松は真田大助らとともに、四国路を薩摩に逃れ、伊集院兼貞の庇護のもとにあったが、徳川の時代になって、豊後国日出藩の木下延俊(木下延次、木下延由)の所へあずけられた。国松が薩摩から渡ってきたとき、八蔵という百姓の子のような名前だったのを、縫殿助と改めさせて木下の籍に加えた。その後の国松の消息については詳しいことは伝えられていない。(参考:白藤有三「豊臣国松生死の謎」歴史研究285)
 『甲子夜話』は、「信幸は、真田三代記に真田幸村の薩摩落ちが語られたことから、頴娃の幸村(信繁)と目されるこの人物に使いをやったが、使いの問いに対して、幸村は、落ち延びた身であり、使いが本物かどうかも分からないので、間者かもしれないと疑心暗鬼になり、自分が幸村であるとを認めることができなかった」としている。
 真田幸村は、ここに住んでいるとき、松代真田家の藩主の父として生きている信之(信幸)と何度か手紙を交換していた。真江田家(難波家)では、真田幸村が真田信幸に幾たびか手紙を出したという言い伝えがある。また、真江田家(難波家)には真田信幸とやりとりした手紙が大事に保管され、現在も残っている、と言う。
 真田家の重臣・玉川家の配下の同心(足軽)某は毎年、伊勢代参と称して上方へ上った。その出発の前夜は、玉川と夜の明けるまで密談して出かける例で、しかも、ふつうの伊勢代参より7日も10日もよけいの日数がかかるのであった。同心の女房はそれを不思議に思っていたが、夫が重病にかかって命旦夕に迫ったので、「何十年も連れ添いながら、秘密をかくしておられるのは口惜しい。のこりなくお話ください」と責めた。そこで、その同心が妻に物語った次のようなことだったという。
 「ある年、玉川の旦那の供をして伊勢参宮に行ったが、参宮ののち、熊野の裏山の方へ行き、2日ほど家も道もない所へ分け入ると、洞窟の前へ出た。玉川の旦那は私を口元に残して、一人で奥深く入っていかれた。さて、その後は毎年、伊勢代参の名目で私一人がそこへやられる。いつも状箱一つ持って行く。その状箱の上には『上』とばかり書いてある。岩屋へ着くと、内から白髪総髪で、髭が帯あたりまで下がっている七十余ほどの老人が出て来て、無言のまま状箱を受け取り、一夜過ぎてのち、返礼らしく、その状箱を封じ、上に『参る』とばかり書いて渡す。それを持って来って玉川の旦那に渡すと、任務は終わる」
 真田博明氏が松代藩当主・幸俊真田宅を捜したが、手紙は残っていなかった。幕府が松代藩を改易する口実にすることを恐れて、届いた手紙を残さなかったのかもしれない。実際、松代藩は、石田三成からの誘い状を残していたが、幕末までずっとかたときも厳重な見張りを怠らず幕府に漏れないよう細心の注意を払い続けたくらいである。そのための見張り役もいた。
  九度山善名称院(真田屋敷)の尼の物語──大坂落城後、元和2年の正月から、年毎に侍が一人来て、九度山の真田昌幸の屋敷跡を拝し、村内の幸村旧縁の家に一泊して帰るということが9年間続いたという。10年目からは来なくなった。この侍は幸村の参代で、幸村が10年目に死亡したために来なくなったという。
 奈良屋角左衛門の話──真田幸村が蟄居時代にいた九度山に程近い橋本に奈良屋角左衛門という商人がおり、時々九度山の幸村のもとに来て碁の相手をしていた。幸村は大坂入城の時に碁盤を角左衛門に与えた。大坂の陣の翌春、幸村の馬の口の者が奈良屋に訪ねて来て、「相変わる事はないか。我らも無事だ。」と幸村の口上を伝えた。それから5年間は年毎に口の者が来たが、6年目からは来なくなったという。
 飯田氏──秋田県大館市の浄土宗一心寺に幸村の墓がある。ここでは幸村は飯田氏と姓を変えている。秀頼が没すると幸村・大助父子は、その冥福を祈るため、諸国の霊場を巡礼し、北陸路から奥州路に入った。幸村は、ここでの俗名は市兵衛といい、寛永18年(1641)に76歳で没した。子の大助は元禄4年(1691)に89歳で没している。飯田姓を名乗るようになったのは、凶作の時に多くの金銀を藩に献納した功により名字を許されたので、故郷の地名にあやかったのである。上田ではなく飯田にしたのは幕府に遠慮してのことである。
 頴娃村郷土誌では、次のように記述されている。
……(前略)……
 其の大阪一乱後わが薩摩には御大将豊臣内大臣秀頼公を始め、眞田幸村、木村重成、大谷吉?(刑部義隆の遺児)、後藤基綱、明石金登、伊木遠雄、北川宣勝等上下一千余人の大阪残党が続々と逃げ來り(鹿児島外史所説)、而して我が頴娃村には大阪方の大立物であつた眞田左衛門幸村が乗り込んで来るし(古老談)直ぐお隣の山川町には大阪陣の花形役者木村長門守重成が潜入するし(伝説)したから猶のこと、新納祐甫は其の取締や何かのため頗る多忙を極めたことだらう
 「薩藩舊傳集」には木村長門守は大阪落城の後、加治木に落ち來る、名は有丘、伊左衛門と申し、小屋掛に居り、囲碁に耽る、萬治二年六十二にて死す、加治木安國寺に墓あり、書類行季に入れ、天井に吊す、死去の際焼き捨つ、槍は柄の末、切り捨て一間ばかりあり、さゞらのやうにつぶる、加治木曾木家にあり云々
 また「薩摩風土記」には鹿児島下町の上方問屋に長門守跡系図ありといふ、木村權兵衛という人あり、これ木村下町納屋通上に山口氏の八百屋あり、眞田の末といふ紋六文銭をつけるあり、同所仲町につさやあり秀頼の書物ありと云々
……(中略)……
 尤も其のころの薩摩人は、眞田幸村を芦塚大左衛門と呼び、其の子の大助幸綱を芦塚中左衛門と呼び又その孫を芦塚小左衛門と呼んでいたさうである(鹿児島外史)さうして眞田幸村の子大助幸綱は後年―寛永十五年正月、豊臣秀頼の子天章四郎豊禎(或いは天草四郎時貞に作る)を惣大将に押し立てて、前肥島原にキリシタンの大騒動を捲き起こした大豪傑であつた
 眞田幸綱等が盟主に戴いた天草四郎豊禎は豊臣秀頼が元和元年五月、大阪夏の陣後、大阪を脱がれて薩藩へ逃げ下つて來てから、鹿児島上町谷村酒屋の娘お何に、生ませた隠し子で、其の豊禎といふ名前は豊家まさに興らんとす、必ず禎祥ありの義に拠つて名づけたものである
 其の天草四郎豊禎は祖父豊臣太閤秀吉にも劣らぬ程大豪傑で、その聡明雄略まことに倫を絶し、其の時わづか十四歳の若僧ながら馬を一陣に進めて、三軍を統率指揮するところ其の祖父豊臣太閤秀吉が木下籐吉郎時代の武者振りを其のまゝ目に見る如き心地して、敵も味方も天ツ晴れ武者振りよと感嘆措かなかつたものだつた
 だか、其の神童天草四郎豊禎も、天下の大軍にはとても敵対出来るものでなく、彼等が金城湯池と頼んだ肥前の原城は幕将松平伊豆守信綱等十二萬余の聯合軍から十重二十重に攻め囲まれ遂に元和二年二月二十八日もろくも落城した、其の時、天草四郎豊禎の大軍師森宗意軒は、得意の幻術を使って島原一園、黒暗々の大魔界となし其の隙は四郎豊禎以下の残党を薩摩に逃げさせた
 天草四郎豊禎の子孫は、谷山郷木下村にあり、代々百姓となり、然も其の家には豊臣秀頼が遺愛の金煙管および豊臣秀吉が千成ひさごに似せて作つた金串柿九十九連、其の他の珍品を襲藏したものだつたまた眞田幸綱の子孫は山口の苗字を名乗り家の紋には六曜星を使用したが、其の六曜星を俗間では六文銭と誤まり傳へてゐる
 ところで―頴娃別府村淵別府には、真田幸村が一時潜伏して居ったといふ隠れ家の跡があり、又その附近の川端には眞田幸村の墓と称する古墳がある、土地の故老の実話に依ると、眞田幸村は大阪落城後、薩摩へ逃げ下り、それより頴姓淵別府にやつて來て、此處に一家を構へ、頴娃摺木在の百姓某の娘お何を小間使ひに雇ひ入れて、身のまはり一切の世話をさせてゐたが、さて遠くて近きは男女の仲……そんな豪傑でもやつぱり女子の愛には勝てぬと見へて、摺木出の小間使ひは何時の間にか眞田幸村の胤を宿して、近頃酸っぱいものを非常に欲しがるやうになつた
 でも、眞田幸村は其のころ世を忍ぶ落人の身である、若しも事が暴露れると世間様に對して甚だ申譯がないとでも考えたものか、巧く其の女を説きつけて、頴娃大川の浦人某の妻にしてやった、さうすると間もなく月満ちて、其の女は産の紐を解き、丸々と太った玉の如き男の子を生んだ、其の男の子こそ眞田幸村の隠し子であつて、後に眞江田某と呼び、苗字帯刀を許された男である、さうして眞田幸村の子孫は今現に頴姓村別府大川にあり、其の姓名を眞江田三左衛門といふ其の眞江田は眞田をもぢつたもので、三左衛門は左衛門をもぢつたものである、若しも世が世であれば眞江田三左衛門幸〇と名乗つて、一廉の武士にでもなつて居るべき筈である

http://http://www2u.biglobe.ne.jp/~sanada/sanada/sanada/satsuma.html

 

資料のある幸村生存説

 投稿者:幸村薩摩落ち伝説の作者  投稿日:2017年 9月19日(火)12時00分15秒
   天保14(1843)年に成立した真田家の家譜「先公実録」中に幸村の伝記「左衛門佐君伝記稿」があるが、その中に「大坂の陣のあとに流行った童歌で『花のようなる秀頼さまを 鬼のようなる真田がつれて 退きも退いたり加護島へ』というものがあり、鹿児島へ逃げ延びたとする童歌が存在する」「頴娃郡の浄門ケ嶽の麓に風来の山伏がおり、地元の人も恐れていたが、これが幸村だった」と書かれている。これに対して、真田家の正史『真田家御事蹟稿』のうち、信繁(幸村)の伝記である『左衛門佐君伝記稿』」では、「真田大八は 夭折」と記されている。又、玉露叢(1598年~1681年迄の記録書)にも「真田大八は京都にて早世」と記されている。
 歴史資料では、真田徹の主張は否定されており、真田幸村の薩摩落ちは肯定されている。

http://http://www2u.biglobe.ne.jp/~sanada/sanada/sanada/satsuma.html

 

真田幸村生存説を放送

 投稿者:幸村薩摩落ち伝説の作者  投稿日:2017年 9月19日(火)11時04分49秒
   平成29年4月8日、4月29日、9月10日にBS-TBSの「諸説あり」で「謎多き英雄 真田幸村の正体」が放送された。その中の「真田幸村生存説」では、資料とともに、現地までロケに訪れ、南九州市頴娃町牧之内・雪丸の真田幸村の墓やその周囲の景色などに加え、南九州市頴娃町別府・大川の難波家や真江田家の墓の六文銭の映像まで放送された。BS-TBSの「諸説あり」の「謎多き英雄 真田幸村の正体」についての私のコメントです。

真田幸村長男説について、
 30年前に読んだ真田幸村の本には、「兄弟の生母は『山之手殿』ということになっているものの、事実は奇怪にも、幸村の方が一つ年上だったが、生母の身分がいやしかったので、一年後、正夫人の『山之手殿』腹に生まれた信幸を嫡男とし、幸村を一年後に生まれた次男とした」という説が紹介されていた。
別の項で、「長男は夭折した」という記事があった。ということは、長男が夭折し、次男は幸村、三男は信幸ということになる。

真田幸村の徳川家康スパイ説について
 私は、真田幸村が薩摩落ちし、頴娃町で暮らしていたとき、幸村の世話をしていた百姓の娘に産ませた子・瓢左衛門の子孫です。
 私の父は、曾祖父の難波周八や郷土史家らか聞いた話として、大坂夏の陣に空白の一日があり、そのときに何らかの談合が行われた可能性があると言っていました。
 最初から真田幸村が徳川家康のスパイだったかどうかはわからないが、そこに何らかの談合があったらしい。

真田幸村生存説について
 イギリス商館長のリチャード・コックスの日記によると、「秀頼様の遺骸は遂に発見せられず、従って、彼は密かに脱走せしなりと信じるもの少なからず(元和元年(1615)6月5日)」「皇帝(家康)は、日本全国に命を発して、大坂焼亡の際、城を脱出せし輩を捜索せしめたり、因って平戸の家は、すべて内偵せられ、各戸に宿泊する他郷人調査の実際の報告は、法官に呈せられたり(同日付)」「秀頼は薩摩か琉球に逃げのびた(1カ月半後)」「秀頼様は重臣5・6名と共に生存し、薩摩にいるという風聞がある(京都から来た友人(イートン)の話)」となっている。
 松浦静山の「甲子夜話」には「大坂落城の時、豊臣秀頼は潜かに薩摩に行かれたという一説あり。此の事、異域(中国)へも聞こえたると見えて、『涌幢小品』に秀頼が兵敗走して和泉に入る。城焚きて死す。また薩摩に逃げ入るという者あり…」と記述している。
 後に、オランダ商館長ティツィングの訳をクラプロートが増補した仏語版「日本王代一覧」によって、兵庫経由での薩摩落ち伝説は欧州にも紹介された。
 歴史研究・作家の加来耕三は、平成29年1月13日にテレビ東京の「古代ミステリーたけしの新世界七不思議大百科」で「汚穢船を使って堀へ出て堀からさらに小さい川に出て、幅が大きくなったら大きい船に乗り換えて、最終的に兵庫沖で薩摩の船に乗り換えたという話がけっこうありますから」と言っている。
 鹿児島外史によると、「秀頼は京橋口より軽船に乗り河港から大軍艦に乗り~(中略)~(薩摩)谷山村の在す」となっている。
 「谷山村郷土誌」(明治45年刊)によると、「大坂夏の陣で戦死したはずの真田幸村が豊臣秀頼を護衛して堺の町に逃げ来たり、舟に乗って薩摩に亡命した」とある。
 真田六文会会長の眞田博明さんよると、「真田幸村は、谷山から尾根伝いに頴娃に潜入し、1年ほどいてから、秋田県大館市に向かった」ということである。
 『採要録』によると、「大坂落城後、鹿児島の南一里半ほどの谷山村(旧谷山市、現在の鹿児島市南部)へ、どこからともなく浪人が来て住みついた。島津氏から居宅を造り与えられ、日常の費用も与えて何不自由のないようにしておいた。同じころ、薩摩の浄門ケ岳の麓(揖宿郡頴娃町大字牧之内字雪丸)にも、風来の山伏が住みつき、また、加治木浦(姶良郡加治木町)にも浪人が来住して、この3人は時に打ちつれていることがあった。谷山にいたのは秀頼、山伏は真田幸村、加治木の浪士は木村重成で、秀頼の子孫は木下姓を称し、重成の子孫は木村姓を称している」としている。
 その真田博明さんから真田大助の行方を調べるよう依頼されたが、いろいろな説があり、いずれも確証にかけるので、困っています。
 鹿児島県南九州市頴娃町牧之内の雪丸には田原武雄が所有する私有林の中に伝・真田幸村の墓がある。
 頴娃村郷土誌によると、「頴娃別府村淵別府には、真田幸村が一時潜伏して居ったといふ隠れ家の跡があり、又その附近の川端には眞田幸村の墓と称する古墳がある。土地の故老の実話に依ると、眞田幸村は大阪落城後、薩摩へ逃げ下り、それより頴姓淵別府にやつて來て、此處に一家を構へ、頴娃摺木在の百姓某の娘お何を小間使ひに雇ひ入れて、身のまはり一切の世話をさせてゐたが、さて遠くて近きは男女の仲……そんな豪傑でもやつぱり女子の愛には勝てぬと見へて、摺木出の小間使ひは何時の間にか眞田幸村の胤を宿して、近頃酸っぱいものを非常に欲しがるやうになつた。でも、眞田幸村は其のころ世を忍ぶ落人の身である、若しも事が暴露れると世間様に對して甚だ申譯がないとでも考えたものか、巧く其の女を説きつけて、頴娃大川の浦人某の妻にしてやった」としている。
 その娘が生んだ子が瓢左衛門である。私はその子孫です。私は、私の一族が幕末に倒幕運動に加わったという話は聞いていません。可能性があるとすると、真田大助ですが、それについては、次のような問題があります。
 私の父は、曾祖父の難波周八や同門の田原武雄や秀頼の子孫などから聞いた話として、「真田大助は、島津貴久の弟・忠将に実子がなかったことから、その養子となり、(宮崎県)佐土原島津家中興の祖となった」と言っていた。
 明治維新後、島津斎彬の孫で、忠義の子久範はこの佐土原島津家を継いだ。久範の二男久永は、近上天皇の妹清宮貴子を嫁にし、禎久という子を儲けている。久永は、現在、ソニーの取締役をしていた。島津久永、貴子、禎久の3人は、小和田雅子さんが皇太子妃に正式に決定してから催された小和田家、天皇家の親戚を集めての夕食会には、皇族として出席した。
 この件については、宮崎県宮崎郡佐土原町役場に問い合わせたところ、郷土史家もそのような話は聞いたことがないということであった。
また、真田大助幸昌が薩摩入りする前に、佐土原島津家中興の祖である島津幸久は60歳代で既に亡くなっており、父・秀男が曾祖父や秀頼の子孫から話を聞いた際、何らかの取り違えがあったのかもしれない。
真田家が徳川家を倒したのだとすると、真田大助が島津家に入ったのだとして、その際、どのように島津家に入ったのかを調査する必要があります。

 六文銭が刻まれた墓は雪丸家の墓ではなく、南九州市頴娃町別府の大川地区にある難波家と真江田家の墓です。

 20年前に読んだ西郷隆盛の本に「島津の藩校である造士館で軍略の教本として真田三代記を使用していた」と書いてありました。
 真田家が直接、幕末の倒幕運動に手を貸したのではなく、西郷隆盛らが真田の軍略を独自に研究したというのが実情です。

http://http://www2u.biglobe.ne.jp/~sanada/sanada/sanada/satsuma.html

 

無知な人の作り話に注意

 投稿者:幸村薩摩落ち伝説の作者  投稿日:2017年 9月16日(土)00時34分56秒
   イギリス商館長のリチャード・コックスの日記では「秀頼様は重臣5・6名と共に生存し、薩摩にいるという風聞がある」となっている。
 鹿児島外史では「秀頼は京橋口より軽船に乗り河港から大軍艦に乗り~(中略)~(薩摩)谷山村の在す」となっている。
 真田六文会会長の眞田博明さんよると、「真田幸村は、谷山から尾根伝いに頴娃に潜入した」と言っていた。
 「頴娃村郷土誌」では「頴娃別府村淵別府には、真田幸村が一時潜伏して居ったといふ隠れ家の跡があり、又その附近の川端には眞田幸村の墓と称する古墳がある」としているが、「頴娃町郷土誌」になると「雪丸部落には幸村の墓といわれる『六文銭』の紋所のついた墓石があるということで調査したが、発見できなかった」としている。
 さらに、「頴娃村郷土誌」では「土地の故老の実話に依ると、眞田幸村は大阪落城後、薩摩へ逃げ下り、それより頴姓淵別府にやつて來て、此處に一家を構へ、頴娃摺木在の百姓某の娘お何を小間使ひに雇ひ入れて、身のまはり一切の世話をさせてゐたが、さて遠くて近きは男女の仲……そんな豪傑でもやつぱり女子の愛には勝てぬと見へて、摺木出の小間使ひは何時の間にか眞田幸村の胤を宿して、近頃酸っぱいものを非常に欲しがるやうになつた。でも、眞田幸村は其のころ世を忍ぶ落人の身である、若しも事が暴露れると世間様に對して甚だ申譯がないとでも考えたものか、巧く其の女を説きつけて、頴娃大川の浦人某の妻にしてやった」としている。その娘が生んだ子が瓢左衛門で、私の先祖です。
 「頴娃村郷土誌」に出てくる「眞江田三左衛門」は私の曾祖父・難波周八の弟であり、難波周八が幕末、明治、大正に生きたので、幕末、明治に「頴娃村郷土誌」が記述されたと考えられる。
 鹿児島県南九州市頴娃町牧之内の雪丸には田原武雄が所有する私有林の中に伝・真田幸村の墓がある。
 近年、鹿児島県南九州市頴娃町牧之内・雪丸にある伝・眞田幸村の墓を訪れる人が増えている。
 これは眞田幸村がここにいたという記念碑であって、眞田幸村はここに眠ってはいない。この記念碑には何の刻印もない。
 一方、頴娃町別府・大川にある難波家や眞江田家の墓には六文銭が刻印されている。
 昔、真田十勇士が流行っていた頃、多くの学者や研究者が度々訪れていた。そして、この人たちが、ここにきた印として、小石を一つずつ置いていった。このため、真田幸村の墓に無数の小石が置かれている。これは父から聞いた話です。私が「幸村薩摩落ち伝説」に書いておいたら、皆、これに倣うようになりました。
 「真田幸村がなくなると娘と真江田瓢左衛門がお参りするとには、海から丸い石を拾って、お賽銭代わりに小石を置いていったと言われています」としているが、これは何も知らない人による作り話です。眞田幸村がここで亡くなったという記録はないし、徳川幕府の力が及ばなくなった江戸時代後期になってからやっと眞江田家は苗字帯刀を許されるようになった。
 平成29年4月8日、4月29日、9月10日にBS-TBSの「諸説あり」で「謎多き英雄 真田幸村の正体」が放送された。その中の「真田幸村生存説」では、資料とともに、現地までロケに訪れ、南九州市頴娃町牧之内・雪丸の真田幸村の墓やその周囲の景色などに加え、南九州市頴娃町別府・大川の難波家や真江田家の墓の六文銭の映像まで放送された。
 最近は、雪丸の方々もいろいろ真田幸村の墓への案内に取り組んでいるようだ。母の法事で、田原武雄家を訪ねたときは、夫人が「いつも案内していた者が足が悪くなり、案内できなくなった」と話していたので、心配していたが、この放送で、別の案内人がいることを知って安堵した。

http://http://www2u.biglobe.ne.jp/~sanada/sanada/sanada/satsuma.html

 

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