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真田徹の大八生存説ねつ造

 投稿者:幸村薩摩落ち伝説の作者  投稿日:2017年 9月20日(水)03時10分45秒
   真田徹は真田幸村の薩摩落ちを否定しているが、根拠となる歴史資料が多数存在する。これに対し、真田徹の説は根拠となる資料がなく、口伝としており、都合の悪い資料が出る度、つじつま合わせに話をねつ造してきた。昭和になってからは新漢字しか使用を認められていない。戸籍上の字が新漢字の「真田」なら昭和になってから「真田」と名乗った証拠である。眞田博明さんも眞田幸俊さんも旧漢字の「眞田」である。私も旧漢字の「濵﨑」である。
 『左衛門佐君伝記稿』」では「真田大八は 夭折」と記されている。又、玉露叢(1598年~1681年迄の記録書)にも「真田大八は京都にて早世」と記されている。真田徹の詭弁は根拠を欠いたため、口伝としているが、食い違う資料がでる度、前言を翻し、新たな話をねつ造することを繰り返している。
 真田徹の話には根拠となる記録がなく、昭和になってから話をねつ造したものであることが明らかとなるにつれ、真田徹の話には疑義が持たれている。しかも、真田徹の先祖は片倉守信の系統に途中から養子で入ったとしている。ということは、眞田幸村の血をひいていないことはもちろん、片倉守信の血さえひいていないことになる。にもかかわらず、眞田幸村の子孫と名乗っている。これらが近年、問題となっている。そんな真田徹が真田幸村の薩摩落ちを否定する資格などあるはずがない。
 「片倉守信が真田大八でない9の理由・白石市の教育委員会が訂正した」では、概略、次のようにされている。
従来 「片倉守信の墓を真田大八」としていた間違った看板を2,016年秋に白石市の教育委員会が訂正しました。そもそも 大正14年に出版された白石町誌を見ると、「当信寺には 大八の墓があるとは 伝わっていなかった事がわかる(江戸時代から大正時代まで)」。昭和8年に出版された仙台人名大辞書に記された「真田の項のデタラメ」から徐々に そのデタラメが浸透して行って 昭和55年の円柱の案内に至ったものである。結論としては、昭和 平成の時代に片倉守信=真田大八としていたことが明らかな間違いで、全くの別人である事が分る。この事は「守信を大八としてきた仙台の子孫と称する方の説が明らかな間違い」と言う事である。
 真田家の正史『真田家御事蹟稿』のうち、信繁(幸村)の伝記である『左衛門佐君伝記稿』」では、「真田大八は夭折と記されている。又、玉露叢(1598年~1681年迄の記録書)にも「真田大八は京都にて早世」と記されている。蓮華定院の報告書通り、真田大八は 大阪の陣の前に亡くなっている。尚、「実は仙台に生き延びた」と記してある本は「仙台人名大辞書」を参考に記されたものであり、2,016年、真田丸で研究が進み、その大辞書の真田の項はデタラメが判明している。もし、大八が夏の陣の時まで 存命であっても、母親と一緒に居らず、徳川にとっての大罪人の幸村の子では食事もできず、幸村の息子と云う事が分れば殺される時代だった。そう言う状況の中で、阿梅が片倉重綱の後妻に入るまでの8年間 どうやって 生き永らえたのか。「仙台に生きた」と云うのなら その証拠が必要だ。大八は 早世しているので その証拠があるはずがない。
 当時の阿梅、当信寺の住職、及び守信の子(辰信)の対応が「守信を幸村の子として扱っていなかった」。
 幸村の子孫と称する人には江戸時代初・中期の古文書の記載は何も無く、言い伝えだけであり、その言い伝えの殆どが史実と異なっている。以上のように間違った言い伝えによると、250年後の明治5年の墓石(真田幸清筆子塚碑文)も間違って彫られてしまう。彫った人は 真田の正史、片倉代々記、仙台叢書などの当時の書物を見てないので間違ってしまった。夏の陣時、娘1人が略奪された事が片倉代々記、及び 真田の正史に記載されている。男の幼児では 足手まといになるだけで略奪する価値も無いので、真田大八の略奪も無かった。よって、仙台に居た片倉守信は もともと仙台の人である。当然 大八ではなく 別人である。尚、娘は 数年後に幸村の娘と判明した。その他の江戸時代の公な古文書には 真田大八が大阪の陣後に 生きていたと云う記録は無い。江戸時代に記された仙台叢書に娘を連れ帰った事が記されている。言い伝えがこんなに違うと云う事は幸村の子孫と称する方は幸村の子孫でないと言う事である。又、言い伝えが無かったとも言える。平成になって「子供5人の保護」を記している本があるが それは作り話であり、「保護」と記している本は間違いである。
 大阪の陣後、家康は 幸村の妻子の捜索を命じた。すぐに妻竹林院と女子が見つけ出され京都の家康に引き渡された時、真田大八は 居なかった。既に大阪方から寝返った片桐などから妻子の人数などの情報を得ていた家康がそれ以上の捜査を命じなかったのは真田大八は 既に死亡していたと云う確認が取れたからである。神君家康が詮議をして 許されたことを後になって外様大名の藩士の事で幕府が「幸村の子ではないか」と咎めることは老中といえどもしません。
 守信が幸村の息子なら、父 幸村の墓を建てているはずである。当然、守信が幸村の子であれば、阿梅の近くに居て連絡も取りあえていたのだから、既に壮年になっている男の守信が位牌等を引き継いだはずである。嫁に行った阿梅にさせるはずはない。当時、阿梅は守信を竹林院の子とは 思ってなかったから自分が母親の位牌を龍安寺から引き取った。「阿梅の母 竹林院が亡くなり(1649年)、京都の名刹 龍安寺に葬られた事を知った阿梅が、両親の位牌を当信寺に安置した」と寺の記録にある。即ち、守信は 幸村の子ではない。又、当信寺にある位牌は、幸村夫妻及び阿梅の位牌は並んでいるが、守信のが無いのは 10年前に亡くなった守信を阿梅が弟と思っていなかったから位牌を作らなかったし、阿梅が亡くなった後は阿梅の縁者或いは 住職が守信は幸村の子と言う認識が無いから阿梅だけのを作り守信の位牌は作らなかった。
 守信は 白石の月心院の檀家になっていない。江戸初期から中期、後期まで幸村の子孫と思わせるものは何も無く、僅かに幕末になり、幸村人気を意識しだして、守信の墓に銭紋が付いていたので、明治5年の墓には、幸村10世 真田源田左衛門滋野幸清と刻んだ。真田大八が夭逝していると云う真田本家の正史等が伝わっていない時代だから幕末の子孫が間違えた。そして、大正、昭和の時代になり、真田本家の正史、片倉代々記などの書物が出るに及び、つじつまを合わせざるを得なくなり、真田大八死亡の噂を流した、とか、系図の偽装(叔父の子孫)とか、明治から昭和生まれの人が記した家系図を江戸時代から伝わる系図と言い出した。その証拠に系図の真田の真の字の上の冠部分を十にしている。明治・江戸時代の人は カタカナのヒ、即ち「眞」を使った。新字の真を使っていると云う事は、昭和以降に書かれた系図と云う事である。
 当信寺にある墓も証明している。守信は片倉一族の分家の四男と言う縁で、当信寺に葬られた。その証拠に「片倉四郎兵衛」と墓石に刻まれている。もし、守信が大八なら、阿梅及び辰信は、幸村が眠る月心院に墓を作り葬った。つまり、明白に守信は「幸村の子ではない」と言うことである。尚、当初の守信の墓は片倉一族の墓近辺に有り、阿梅の墓とは別々の所にあった。(昭和の後半に墓の整理で並立された)守信が弟の大八でないので、阿梅の墓は離れたところに葬られた。息子なら真田二郎兵衛守信、或いは片倉(真田)守信と真田の痕跡を墓石に彫ったはずである。人は臨終に際して真実を語るものである。
 きりがないので、これくらいにしておきますが、真田徹の主張を否定する証拠は数限りなくあります。

 一方、真田幸村の薩摩落ちについては、多数の歴史資料が残されています。

 5月6日は戦いらしい戦いもなく、公の正史である水戸光国の「大日本史」から記録が削除され、空白の一日と呼ばれた。水戸光国の大日本史が抹殺した歴史を、頼山陽の「日本外史」は違った角度から捉え直している。この日に何らかの談合があって、為政者である徳川幕府は、ひたすらそれを隠そうとしたのかもしれない。
 大阪の天王寺区六万体町に元真田幸村の邸宅と称する所があって、そこに真田山に通じる長い抜け穴があることが発見されている。後述のように、真田幸村や豊臣秀頼らが大阪城を脱出するとき、ここを使ったのかもしれない。そして、影武者が大勢現れた大阪夏の陣において、討ち取られたのは影武者の一人にすぎないと考えられる。幸村の影武者は「我こそは真田左衛門輔」と、大阪城にいた大助の影武者は「真田幸村の倅」とそれぞれ大声で名乗っていた。影武者を使ったくらいだから、どちらも本人ならむしろ身分や名前を隠すはずである。写真のなかった当時、まだ無名だった真田幸村や真田大助について本人かどうかとうとう確認できなかったというのが実情である。
 5月7日の大坂夏の陣最後の決戦では、ここかしこに「真田左衛門佐(幸村)」を名乗る武将が現れ、徳川勢を惑乱する中、幸村自身は家康本陣に突っ込み、あと一歩のところまで家康を追い込んだが、精根尽き果て、田の畔に腰を下ろしているところを、越前藩・松平忠直隊の鉄砲足軽頭・西尾久作(仁左衛門)に首をとられた(『慶長見聞書』)。この幸村最期の地を「安居の天神の下」と伝えるのは『大坂御陣覚書』であるが、『銕醤塵芥抄』によると、陣後の首実検には幸村の兜首が3つも出てきたが、西尾久作のとったものだけが、兜に「真田左衛門佐」の名だけでなく、六文銭の家紋もあったので、西尾のとった首が本物とされたという。しかし、『真武内伝追加』によると、「実は西尾のものも影武者望月宇右衛門の首であったとのことで、西尾の主人・松平忠直は将軍秀忠の兄秀康の嫡男であり、その忠直が幸村の首と主張する以上、将軍にも遠慮があって、否定することはできなかった」と記している。
 幸村の首も首実験にかけられ、徳川方についていた叔父の真田信尹が確認しましたが、「面相が変わっている為断言できません。幸村の額にこのような傷はなかった。そう答える」彼に家康は「二度も幸村に会っている癖に断言できないのか」と激昂します。でも、信尹にも言い分があって、彼が幸村に会ったのは夜でしかも信尹は老眼でした。結局は口の中の欠けていたとされる歯の数や、首がつけていた兜が確かに幸村と一致したので首は確かに幸村と断定されました。
 大坂の陣が始まる前に、豊臣秀頼は、“島津の退け口”で勇名を馳せた島津義弘に丁重に出陣を要請したが、断わられている。というものの、過去のいきさつもあって、島津義弘は、秀頼を救出することにした。おそらく、徳川に改易にされそうになったときの隠し球にしようとしたのかもしれない。島津の軍勢は西軍のために兵糧米500石を大坂城中に運び込み、その帰りに真田幸村・大助親子、豊臣秀頼、木村重成らを密かに救い出したのである。家康が河川の多い低湿地帯となっている大坂城の北西方面に手厚い陣を布けなかったことを幸いなことに、真田幸村や豊臣秀頼らは、島津家の家臣伊集院半兵衛が京橋口から忍び入れた小舟に乗り、急流に乗って一気に川口まで下って本船に移った。夏の陣の頃は梅雨の季節で、大和川(寝屋川)、平野川や淀川はなみなみと水をたたえ、その合流した急な流れに乗ることができた。
 この秀頼救出劇は、江戸中期の作家上田秋成が書いた『胆大小心録』の中で、大坂西町奉行所与力内山栗斎の女中から聞いた話として書かれている。その女中の母親は、18歳から木村重成に仕えていた女性である。また、『厭蝕太平記』『玉露証話』『備前老人物語』の中でも、これは述べられている。
 鹿児島県揖宿郡における伝承によると、真田幸村らは、和歌山方面から、島津の軍船に乗って、鹿児島湾(錦江湾)に辿り着いた。幸村は、この時、親鸞上人が書いた直筆の掛軸、秀頼から頂いた「おねぐい」の鞍などを鹿児島に持ち込んでいる。
 大坂落城のとき、大坂城の北、天満方面にはほとんど東軍の姿はなく、城兵は自由に逃げ出せる状態にあった。参戦したら、北方、西方に配置される予定だった西国方面の大名はほとんど戦に間に合わなかったのである。7日の夕方落城し、翌日にはすでに京都あたりへ大勢の落人が逃げのびていった。名のある武将で逃亡した者も少なくなかった。その中でも、長曾我部盛観、大野道犬治胤、秀頼の息女(7歳)、息子国松(8歳)らは逃亡中捕えられ、尼にされた秀頼の息女と国松を除き、みな殺された。
 国松は、北の政所ねねの実兄・木下家定(大分県の立石藩主)に預けられ、木下家定の三男・木下延俊として、そこから分家し、日出藩中興の祖となった。真田博明氏は、これを「公然の秘密」と述べていた。
 豊臣秀吉から豊臣姓を称することを許されていた真田幸村が秀頼とともに薩摩へ落ちのびたという噂は早くからあったらしく、「花の様なる秀頼様を、鬼のやうなる真田がつれて、退きものいたよ加護島へ」と京童に歌われた。実際には、秀頼は背丈が6尺5寸(1メートル97センチ)で、水戸泉のような体格をしており、酒好きであった。逆に、幸村の方が小柄な優男であった。
 当時のイギリス東インド会社の平戸商館長リチャード・コックスは、元和元年(1615)6月5日の日記に、「秀頼様の遺骸は遂に発見せられず、従って、彼は密かに脱走せしなりと信じるもの少なからず」と書きしるし、同じ日付で、皇帝(家康)は、日本全国に命を発して、大坂焼亡の際、城を脱出せし輩を捜索せしめたり、因って平戸の家は、すべて内偵せられ、各戸に宿泊する他郷人調査の実際の報告は、法官に呈せられたり」と書いている。
 また、コックスは、それから1カ月半後の日記になると、「秀頼は薩摩か琉球に逃げのびた」という報告を書きとめ、京都から来た友人(イートン)の「秀頼様は今なお重臣の5、6名と共に生存し、恐らくは薩摩に居るべしとの風聞一般に行はるる」との話も後世に伝えている。
 後に、オランダ商館長ティツィングの訳をクラプロートが増補した仏語版「日本王代一覧」によって、兵庫経由での薩摩落ち伝説は欧州にも紹介された。
  鹿児島外史によると、「秀頼は京橋口より軽船に乗り河港から大軍艦に乗り~(中略)~(薩摩)谷山村の在す」となっている。
 歴史研究・作家の加来耕三は、平成29年1月13日にテレビ東京の「古代ミステリーたけしの新世界七不思議大百科」で「汚穢船を使って堀へ出て堀からさらに小さい川に出て、幅が大きくなったら大きい船に乗り換えて、最終的に兵庫沖で薩摩の船に乗り換えたという話がけっこうありますから」と言っている。
 おそらく島津の軍船は太平洋側を航行したために徳川の探索に引っかからなかったのだろう。実際、幕末の西郷隆盛も徳川幕府の関所に引っかからないようにするため、太平側を航行し、大波で揺られ、難儀したことがあった。
 幸村の兄・信幸の子孫である信濃国松代藩主の真田幸貫は、この異説について調査を行い、その結果報告を見せてもらった肥前国平戸藩の前藩主・松浦静山の「甲子夜話」には「大坂落城の時、豊臣秀頼は潜かに薩摩に行かれたという一説あり。此の事、異域、「(中国)へも聞こえたると見えて、『涌幢小品』に秀頼が兵敗走して和泉に入る。城焚きて死す。また薩摩に逃げ入るという者あり…」と記述するとともに、「これに拠れば、幸村大坂に戦死せしには非ず」と、薩摩落ちを肯定する感想を述べている(『甲子夜話続編』)。
 天保14(1843)年に成立した真田家の家譜「先公実録」中に幸村の伝記「左衛門佐君伝記稿」があるが、その中に「大坂の陣のあとに流行った童歌で『花のようなる秀頼さまを 鬼のようなる真田がつれて 退きも退いたり加護島へ』というものがあり、鹿児島へ逃げ延びたとする童歌が存在する」「頴娃郡の浄門ケ嶽の麓に風来の山伏がおり、地元の人も恐れていたが、これが幸村だった」と書かれている。
   『採要録』によると、大坂落城後、鹿児島の南一里半ほどの谷山村(旧谷山市、現在の鹿児島市南部)へ、どこからともなく浪人が来て住みついた。島津氏から居宅を造り与えられ、日常の費用も与えて何不自由のないようにしておいた。同じころ、薩摩の浄門ケ岳の麓(揖宿郡頴娃町大字牧之内字雪丸)にも、風来の山伏が住みつき、また、加治木浦(姶良郡加治木町)にも浪人が来住して、この3人は時に打ちつれていることがあった。谷山にいたのは秀頼、山伏は真田幸村、加治木の浪士は木村重成で、秀頼の子孫は木下姓を称し、重成の子孫は木村姓を称している、としている。また、後藤又兵衛、薄田隼人なども薩摩に逃げた。
 肥前平戸藩主、松浦静山の随筆である『甲子夜話』、島津外史(鹿児島外史)、薩藩旧記などは、真田幸村について、次のように報告している。谷山時代に芦澤左衛門という名の八百屋がいたが、その家には、真田幸村の武具や刀となどの品々があり、一介の八百屋にこのようなものがあることを当地の人たちは不思議に思った。頴娃に着てからも、こうした品々を持ってきたため、彼がかの有名な真田幸村であろうと当地の人々は噂していた。当人は、決して真田幸村と名乗ったことは一度もなかった。なお、『甲子夜話』は、薩摩には島津外史(鹿児島外史)というものがあり、これは漢文で書かれており、いささか読みづらいとしながらも、これを引用しつつ、真田幸村や豊臣秀頼についての記録を残している。
 「谷山村郷土誌」(明治45年刊)によると、大坂夏の陣で戦死したはずの真田幸村が豊臣秀頼を護衛して堺の町に逃げ来たり、舟に乗って薩摩に亡命したとある。鹿児島の上福元町には秀頼の墓と伝えられる宝塔が福元一雄氏の自宅敷地内にある。鹿児島文化財審議会の木原三郎氏が調査・鑑定したところ、「秀頼の存命年代よりも古い時代の作であり、おそらく平姓谷山氏初代兵衛尉忠光の墓」だろうということである。秀頼・幸村生存説は怪しげな話であるが、秀頼には伊茶(渡辺五兵衛の娘)という側室との間にできた8歳になる国松がいた。この豊臣国松にも生存説がある。
  大坂落城の際、国松は真田大助らとともに、四国路を薩摩に逃れ、伊集院兼貞の庇護のもとにあったが、徳川の時代になって、豊後国日出藩の木下延俊(木下延次、木下延由)の所へあずけられた。国松が薩摩から渡ってきたとき、八蔵という百姓の子のような名前だったのを、縫殿助と改めさせて木下の籍に加えた。その後の国松の消息については詳しいことは伝えられていない。(参考:白藤有三「豊臣国松生死の謎」歴史研究285)
 『甲子夜話』は、「信幸は、真田三代記に真田幸村の薩摩落ちが語られたことから、頴娃の幸村(信繁)と目されるこの人物に使いをやったが、使いの問いに対して、幸村は、落ち延びた身であり、使いが本物かどうかも分からないので、間者かもしれないと疑心暗鬼になり、自分が幸村であるとを認めることができなかった」としている。
 真田幸村は、ここに住んでいるとき、松代真田家の藩主の父として生きている信之(信幸)と何度か手紙を交換していた。真江田家(難波家)では、真田幸村が真田信幸に幾たびか手紙を出したという言い伝えがある。また、真江田家(難波家)には真田信幸とやりとりした手紙が大事に保管され、現在も残っている、と言う。
 真田家の重臣・玉川家の配下の同心(足軽)某は毎年、伊勢代参と称して上方へ上った。その出発の前夜は、玉川と夜の明けるまで密談して出かける例で、しかも、ふつうの伊勢代参より7日も10日もよけいの日数がかかるのであった。同心の女房はそれを不思議に思っていたが、夫が重病にかかって命旦夕に迫ったので、「何十年も連れ添いながら、秘密をかくしておられるのは口惜しい。のこりなくお話ください」と責めた。そこで、その同心が妻に物語った次のようなことだったという。
 「ある年、玉川の旦那の供をして伊勢参宮に行ったが、参宮ののち、熊野の裏山の方へ行き、2日ほど家も道もない所へ分け入ると、洞窟の前へ出た。玉川の旦那は私を口元に残して、一人で奥深く入っていかれた。さて、その後は毎年、伊勢代参の名目で私一人がそこへやられる。いつも状箱一つ持って行く。その状箱の上には『上』とばかり書いてある。岩屋へ着くと、内から白髪総髪で、髭が帯あたりまで下がっている七十余ほどの老人が出て来て、無言のまま状箱を受け取り、一夜過ぎてのち、返礼らしく、その状箱を封じ、上に『参る』とばかり書いて渡す。それを持って来って玉川の旦那に渡すと、任務は終わる」
 真田博明氏が松代藩当主・幸俊真田宅を捜したが、手紙は残っていなかった。幕府が松代藩を改易する口実にすることを恐れて、届いた手紙を残さなかったのかもしれない。実際、松代藩は、石田三成からの誘い状を残していたが、幕末までずっとかたときも厳重な見張りを怠らず幕府に漏れないよう細心の注意を払い続けたくらいである。そのための見張り役もいた。
  九度山善名称院(真田屋敷)の尼の物語──大坂落城後、元和2年の正月から、年毎に侍が一人来て、九度山の真田昌幸の屋敷跡を拝し、村内の幸村旧縁の家に一泊して帰るということが9年間続いたという。10年目からは来なくなった。この侍は幸村の参代で、幸村が10年目に死亡したために来なくなったという。
 奈良屋角左衛門の話──真田幸村が蟄居時代にいた九度山に程近い橋本に奈良屋角左衛門という商人がおり、時々九度山の幸村のもとに来て碁の相手をしていた。幸村は大坂入城の時に碁盤を角左衛門に与えた。大坂の陣の翌春、幸村の馬の口の者が奈良屋に訪ねて来て、「相変わる事はないか。我らも無事だ。」と幸村の口上を伝えた。それから5年間は年毎に口の者が来たが、6年目からは来なくなったという。
 飯田氏──秋田県大館市の浄土宗一心寺に幸村の墓がある。ここでは幸村は飯田氏と姓を変えている。秀頼が没すると幸村・大助父子は、その冥福を祈るため、諸国の霊場を巡礼し、北陸路から奥州路に入った。幸村は、ここでの俗名は市兵衛といい、寛永18年(1641)に76歳で没した。子の大助は元禄4年(1691)に89歳で没している。飯田姓を名乗るようになったのは、凶作の時に多くの金銀を藩に献納した功により名字を許されたので、故郷の地名にあやかったのである。上田ではなく飯田にしたのは幕府に遠慮してのことである。
 頴娃村郷土誌では、次のように記述されている。
……(前略)……
 其の大阪一乱後わが薩摩には御大将豊臣内大臣秀頼公を始め、眞田幸村、木村重成、大谷吉?(刑部義隆の遺児)、後藤基綱、明石金登、伊木遠雄、北川宣勝等上下一千余人の大阪残党が続々と逃げ來り(鹿児島外史所説)、而して我が頴娃村には大阪方の大立物であつた眞田左衛門幸村が乗り込んで来るし(古老談)直ぐお隣の山川町には大阪陣の花形役者木村長門守重成が潜入するし(伝説)したから猶のこと、新納祐甫は其の取締や何かのため頗る多忙を極めたことだらう
 「薩藩舊傳集」には木村長門守は大阪落城の後、加治木に落ち來る、名は有丘、伊左衛門と申し、小屋掛に居り、囲碁に耽る、萬治二年六十二にて死す、加治木安國寺に墓あり、書類行季に入れ、天井に吊す、死去の際焼き捨つ、槍は柄の末、切り捨て一間ばかりあり、さゞらのやうにつぶる、加治木曾木家にあり云々
 また「薩摩風土記」には鹿児島下町の上方問屋に長門守跡系図ありといふ、木村權兵衛という人あり、これ木村下町納屋通上に山口氏の八百屋あり、眞田の末といふ紋六文銭をつけるあり、同所仲町につさやあり秀頼の書物ありと云々
……(中略)……
 尤も其のころの薩摩人は、眞田幸村を芦塚大左衛門と呼び、其の子の大助幸綱を芦塚中左衛門と呼び又その孫を芦塚小左衛門と呼んでいたさうである(鹿児島外史)さうして眞田幸村の子大助幸綱は後年―寛永十五年正月、豊臣秀頼の子天章四郎豊禎(或いは天草四郎時貞に作る)を惣大将に押し立てて、前肥島原にキリシタンの大騒動を捲き起こした大豪傑であつた
 眞田幸綱等が盟主に戴いた天草四郎豊禎は豊臣秀頼が元和元年五月、大阪夏の陣後、大阪を脱がれて薩藩へ逃げ下つて來てから、鹿児島上町谷村酒屋の娘お何に、生ませた隠し子で、其の豊禎といふ名前は豊家まさに興らんとす、必ず禎祥ありの義に拠つて名づけたものである
 其の天草四郎豊禎は祖父豊臣太閤秀吉にも劣らぬ程大豪傑で、その聡明雄略まことに倫を絶し、其の時わづか十四歳の若僧ながら馬を一陣に進めて、三軍を統率指揮するところ其の祖父豊臣太閤秀吉が木下籐吉郎時代の武者振りを其のまゝ目に見る如き心地して、敵も味方も天ツ晴れ武者振りよと感嘆措かなかつたものだつた
 だか、其の神童天草四郎豊禎も、天下の大軍にはとても敵対出来るものでなく、彼等が金城湯池と頼んだ肥前の原城は幕将松平伊豆守信綱等十二萬余の聯合軍から十重二十重に攻め囲まれ遂に元和二年二月二十八日もろくも落城した、其の時、天草四郎豊禎の大軍師森宗意軒は、得意の幻術を使って島原一園、黒暗々の大魔界となし其の隙は四郎豊禎以下の残党を薩摩に逃げさせた
 天草四郎豊禎の子孫は、谷山郷木下村にあり、代々百姓となり、然も其の家には豊臣秀頼が遺愛の金煙管および豊臣秀吉が千成ひさごに似せて作つた金串柿九十九連、其の他の珍品を襲藏したものだつたまた眞田幸綱の子孫は山口の苗字を名乗り家の紋には六曜星を使用したが、其の六曜星を俗間では六文銭と誤まり傳へてゐる
 ところで―頴娃別府村淵別府には、真田幸村が一時潜伏して居ったといふ隠れ家の跡があり、又その附近の川端には眞田幸村の墓と称する古墳がある、土地の故老の実話に依ると、眞田幸村は大阪落城後、薩摩へ逃げ下り、それより頴姓淵別府にやつて來て、此處に一家を構へ、頴娃摺木在の百姓某の娘お何を小間使ひに雇ひ入れて、身のまはり一切の世話をさせてゐたが、さて遠くて近きは男女の仲……そんな豪傑でもやつぱり女子の愛には勝てぬと見へて、摺木出の小間使ひは何時の間にか眞田幸村の胤を宿して、近頃酸っぱいものを非常に欲しがるやうになつた
 でも、眞田幸村は其のころ世を忍ぶ落人の身である、若しも事が暴露れると世間様に對して甚だ申譯がないとでも考えたものか、巧く其の女を説きつけて、頴娃大川の浦人某の妻にしてやった、さうすると間もなく月満ちて、其の女は産の紐を解き、丸々と太った玉の如き男の子を生んだ、其の男の子こそ眞田幸村の隠し子であつて、後に眞江田某と呼び、苗字帯刀を許された男である、さうして眞田幸村の子孫は今現に頴姓村別府大川にあり、其の姓名を眞江田三左衛門といふ其の眞江田は眞田をもぢつたもので、三左衛門は左衛門をもぢつたものである、若しも世が世であれば眞江田三左衛門幸〇と名乗つて、一廉の武士にでもなつて居るべき筈である

http://http://www2u.biglobe.ne.jp/~sanada/sanada/sanada/satsuma.html

 
 

資料のある幸村生存説

 投稿者:幸村薩摩落ち伝説の作者  投稿日:2017年 9月19日(火)12時00分15秒
   天保14(1843)年に成立した真田家の家譜「先公実録」中に幸村の伝記「左衛門佐君伝記稿」があるが、その中に「大坂の陣のあとに流行った童歌で『花のようなる秀頼さまを 鬼のようなる真田がつれて 退きも退いたり加護島へ』というものがあり、鹿児島へ逃げ延びたとする童歌が存在する」「頴娃郡の浄門ケ嶽の麓に風来の山伏がおり、地元の人も恐れていたが、これが幸村だった」と書かれている。これに対して、真田家の正史『真田家御事蹟稿』のうち、信繁(幸村)の伝記である『左衛門佐君伝記稿』」では、「真田大八は 夭折」と記されている。又、玉露叢(1598年~1681年迄の記録書)にも「真田大八は京都にて早世」と記されている。
 歴史資料では、真田徹の主張は否定されており、真田幸村の薩摩落ちは肯定されている。

http://http://www2u.biglobe.ne.jp/~sanada/sanada/sanada/satsuma.html

 

真田幸村生存説を放送

 投稿者:幸村薩摩落ち伝説の作者  投稿日:2017年 9月19日(火)11時04分49秒
   平成29年4月8日、4月29日、9月10日にBS-TBSの「諸説あり」で「謎多き英雄 真田幸村の正体」が放送された。その中の「真田幸村生存説」では、資料とともに、現地までロケに訪れ、南九州市頴娃町牧之内・雪丸の真田幸村の墓やその周囲の景色などに加え、南九州市頴娃町別府・大川の難波家や真江田家の墓の六文銭の映像まで放送された。BS-TBSの「諸説あり」の「謎多き英雄 真田幸村の正体」についての私のコメントです。

真田幸村長男説について、
 30年前に読んだ真田幸村の本には、「兄弟の生母は『山之手殿』ということになっているものの、事実は奇怪にも、幸村の方が一つ年上だったが、生母の身分がいやしかったので、一年後、正夫人の『山之手殿』腹に生まれた信幸を嫡男とし、幸村を一年後に生まれた次男とした」という説が紹介されていた。
別の項で、「長男は夭折した」という記事があった。ということは、長男が夭折し、次男は幸村、三男は信幸ということになる。

真田幸村の徳川家康スパイ説について
 私は、真田幸村が薩摩落ちし、頴娃町で暮らしていたとき、幸村の世話をしていた百姓の娘に産ませた子・瓢左衛門の子孫です。
 私の父は、曾祖父の難波周八や郷土史家らか聞いた話として、大坂夏の陣に空白の一日があり、そのときに何らかの談合が行われた可能性があると言っていました。
 最初から真田幸村が徳川家康のスパイだったかどうかはわからないが、そこに何らかの談合があったらしい。

真田幸村生存説について
 イギリス商館長のリチャード・コックスの日記によると、「秀頼様の遺骸は遂に発見せられず、従って、彼は密かに脱走せしなりと信じるもの少なからず(元和元年(1615)6月5日)」「皇帝(家康)は、日本全国に命を発して、大坂焼亡の際、城を脱出せし輩を捜索せしめたり、因って平戸の家は、すべて内偵せられ、各戸に宿泊する他郷人調査の実際の報告は、法官に呈せられたり(同日付)」「秀頼は薩摩か琉球に逃げのびた(1カ月半後)」「秀頼様は重臣5・6名と共に生存し、薩摩にいるという風聞がある(京都から来た友人(イートン)の話)」となっている。
 松浦静山の「甲子夜話」には「大坂落城の時、豊臣秀頼は潜かに薩摩に行かれたという一説あり。此の事、異域(中国)へも聞こえたると見えて、『涌幢小品』に秀頼が兵敗走して和泉に入る。城焚きて死す。また薩摩に逃げ入るという者あり…」と記述している。
 後に、オランダ商館長ティツィングの訳をクラプロートが増補した仏語版「日本王代一覧」によって、兵庫経由での薩摩落ち伝説は欧州にも紹介された。
 歴史研究・作家の加来耕三は、平成29年1月13日にテレビ東京の「古代ミステリーたけしの新世界七不思議大百科」で「汚穢船を使って堀へ出て堀からさらに小さい川に出て、幅が大きくなったら大きい船に乗り換えて、最終的に兵庫沖で薩摩の船に乗り換えたという話がけっこうありますから」と言っている。
 鹿児島外史によると、「秀頼は京橋口より軽船に乗り河港から大軍艦に乗り~(中略)~(薩摩)谷山村の在す」となっている。
 「谷山村郷土誌」(明治45年刊)によると、「大坂夏の陣で戦死したはずの真田幸村が豊臣秀頼を護衛して堺の町に逃げ来たり、舟に乗って薩摩に亡命した」とある。
 真田六文会会長の眞田博明さんよると、「真田幸村は、谷山から尾根伝いに頴娃に潜入し、1年ほどいてから、秋田県大館市に向かった」ということである。
 『採要録』によると、「大坂落城後、鹿児島の南一里半ほどの谷山村(旧谷山市、現在の鹿児島市南部)へ、どこからともなく浪人が来て住みついた。島津氏から居宅を造り与えられ、日常の費用も与えて何不自由のないようにしておいた。同じころ、薩摩の浄門ケ岳の麓(揖宿郡頴娃町大字牧之内字雪丸)にも、風来の山伏が住みつき、また、加治木浦(姶良郡加治木町)にも浪人が来住して、この3人は時に打ちつれていることがあった。谷山にいたのは秀頼、山伏は真田幸村、加治木の浪士は木村重成で、秀頼の子孫は木下姓を称し、重成の子孫は木村姓を称している」としている。
 その真田博明さんから真田大助の行方を調べるよう依頼されたが、いろいろな説があり、いずれも確証にかけるので、困っています。
 鹿児島県南九州市頴娃町牧之内の雪丸には田原武雄が所有する私有林の中に伝・真田幸村の墓がある。
 頴娃村郷土誌によると、「頴娃別府村淵別府には、真田幸村が一時潜伏して居ったといふ隠れ家の跡があり、又その附近の川端には眞田幸村の墓と称する古墳がある。土地の故老の実話に依ると、眞田幸村は大阪落城後、薩摩へ逃げ下り、それより頴姓淵別府にやつて來て、此處に一家を構へ、頴娃摺木在の百姓某の娘お何を小間使ひに雇ひ入れて、身のまはり一切の世話をさせてゐたが、さて遠くて近きは男女の仲……そんな豪傑でもやつぱり女子の愛には勝てぬと見へて、摺木出の小間使ひは何時の間にか眞田幸村の胤を宿して、近頃酸っぱいものを非常に欲しがるやうになつた。でも、眞田幸村は其のころ世を忍ぶ落人の身である、若しも事が暴露れると世間様に對して甚だ申譯がないとでも考えたものか、巧く其の女を説きつけて、頴娃大川の浦人某の妻にしてやった」としている。
 その娘が生んだ子が瓢左衛門である。私はその子孫です。私は、私の一族が幕末に倒幕運動に加わったという話は聞いていません。可能性があるとすると、真田大助ですが、それについては、次のような問題があります。
 私の父は、曾祖父の難波周八や同門の田原武雄や秀頼の子孫などから聞いた話として、「真田大助は、島津貴久の弟・忠将に実子がなかったことから、その養子となり、(宮崎県)佐土原島津家中興の祖となった」と言っていた。
 明治維新後、島津斎彬の孫で、忠義の子久範はこの佐土原島津家を継いだ。久範の二男久永は、近上天皇の妹清宮貴子を嫁にし、禎久という子を儲けている。久永は、現在、ソニーの取締役をしていた。島津久永、貴子、禎久の3人は、小和田雅子さんが皇太子妃に正式に決定してから催された小和田家、天皇家の親戚を集めての夕食会には、皇族として出席した。
 この件については、宮崎県宮崎郡佐土原町役場に問い合わせたところ、郷土史家もそのような話は聞いたことがないということであった。
また、真田大助幸昌が薩摩入りする前に、佐土原島津家中興の祖である島津幸久は60歳代で既に亡くなっており、父・秀男が曾祖父や秀頼の子孫から話を聞いた際、何らかの取り違えがあったのかもしれない。
真田家が徳川家を倒したのだとすると、真田大助が島津家に入ったのだとして、その際、どのように島津家に入ったのかを調査する必要があります。

 六文銭が刻まれた墓は雪丸家の墓ではなく、南九州市頴娃町別府の大川地区にある難波家と真江田家の墓です。

 20年前に読んだ西郷隆盛の本に「島津の藩校である造士館で軍略の教本として真田三代記を使用していた」と書いてありました。
 真田家が直接、幕末の倒幕運動に手を貸したのではなく、西郷隆盛らが真田の軍略を独自に研究したというのが実情です。

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無知な人の作り話に注意

 投稿者:幸村薩摩落ち伝説の作者  投稿日:2017年 9月16日(土)00時34分56秒
   イギリス商館長のリチャード・コックスの日記では「秀頼様は重臣5・6名と共に生存し、薩摩にいるという風聞がある」となっている。
 鹿児島外史では「秀頼は京橋口より軽船に乗り河港から大軍艦に乗り~(中略)~(薩摩)谷山村の在す」となっている。
 真田六文会会長の眞田博明さんよると、「真田幸村は、谷山から尾根伝いに頴娃に潜入した」と言っていた。
 「頴娃村郷土誌」では「頴娃別府村淵別府には、真田幸村が一時潜伏して居ったといふ隠れ家の跡があり、又その附近の川端には眞田幸村の墓と称する古墳がある」としているが、「頴娃町郷土誌」になると「雪丸部落には幸村の墓といわれる『六文銭』の紋所のついた墓石があるということで調査したが、発見できなかった」としている。
 さらに、「頴娃村郷土誌」では「土地の故老の実話に依ると、眞田幸村は大阪落城後、薩摩へ逃げ下り、それより頴姓淵別府にやつて來て、此處に一家を構へ、頴娃摺木在の百姓某の娘お何を小間使ひに雇ひ入れて、身のまはり一切の世話をさせてゐたが、さて遠くて近きは男女の仲……そんな豪傑でもやつぱり女子の愛には勝てぬと見へて、摺木出の小間使ひは何時の間にか眞田幸村の胤を宿して、近頃酸っぱいものを非常に欲しがるやうになつた。でも、眞田幸村は其のころ世を忍ぶ落人の身である、若しも事が暴露れると世間様に對して甚だ申譯がないとでも考えたものか、巧く其の女を説きつけて、頴娃大川の浦人某の妻にしてやった」としている。その娘が生んだ子が瓢左衛門で、私の先祖です。
 「頴娃村郷土誌」に出てくる「眞江田三左衛門」は私の曾祖父・難波周八の弟であり、難波周八が幕末、明治、大正に生きたので、幕末、明治に「頴娃村郷土誌」が記述されたと考えられる。
 鹿児島県南九州市頴娃町牧之内の雪丸には田原武雄が所有する私有林の中に伝・真田幸村の墓がある。
 近年、鹿児島県南九州市頴娃町牧之内・雪丸にある伝・眞田幸村の墓を訪れる人が増えている。
 これは眞田幸村がここにいたという記念碑であって、眞田幸村はここに眠ってはいない。この記念碑には何の刻印もない。
 一方、頴娃町別府・大川にある難波家や眞江田家の墓には六文銭が刻印されている。
 昔、真田十勇士が流行っていた頃、多くの学者や研究者が度々訪れていた。そして、この人たちが、ここにきた印として、小石を一つずつ置いていった。このため、真田幸村の墓に無数の小石が置かれている。これは父から聞いた話です。私が「幸村薩摩落ち伝説」に書いておいたら、皆、これに倣うようになりました。
 「真田幸村がなくなると娘と真江田瓢左衛門がお参りするとには、海から丸い石を拾って、お賽銭代わりに小石を置いていったと言われています」としているが、これは何も知らない人による作り話です。眞田幸村がここで亡くなったという記録はないし、徳川幕府の力が及ばなくなった江戸時代後期になってからやっと眞江田家は苗字帯刀を許されるようになった。
 平成29年4月8日、4月29日、9月10日にBS-TBSの「諸説あり」で「謎多き英雄 真田幸村の正体」が放送された。その中の「真田幸村生存説」では、資料とともに、現地までロケに訪れ、南九州市頴娃町牧之内・雪丸の真田幸村の墓やその周囲の景色などに加え、南九州市頴娃町別府・大川の難波家や真江田家の墓の六文銭の映像まで放送された。
 最近は、雪丸の方々もいろいろ真田幸村の墓への案内に取り組んでいるようだ。母の法事で、田原武雄家を訪ねたときは、夫人が「いつも案内していた者が足が悪くなり、案内できなくなった」と話していたので、心配していたが、この放送で、別の案内人がいることを知って安堵した。

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真田裕貴は真田幸村の末裔か?

 投稿者:幸村薩摩落ち伝説の作者  投稿日:2017年 9月13日(水)21時26分36秒
   プロ野球選手兼コーチの真田裕貴ジャイアンツ選手は、薩摩落ちした眞田幸村の末裔とは何の関係もありません。私は眞田幸村の五男・瓢左衛門の子孫である眞江田家の嫡流で、家系を調査したことがあり、ほとんど把握しています。少なくとも、薩摩落ちした眞江田菊蔵の子孫に、真田という苗字の者はいませんし、真田裕貴という者もいません。私の家系と結び付けたデマを流したうえ、私の職場に嫌がらせの電話をしつこくしてきた上田利明という人がいましたが、大変迷惑しました。
 眞田幸村の子孫で眞田姓を名乗っているのは、仙台の片倉氏(眞田幸村の二男・大八・片倉守信)と讃岐の石田氏(細川氏)(眞田幸村の四男・石田権左衛門之親)だけである。しかも、この系統は女性が多いため、眞田姓は限られてくる。片倉守信の子孫も石田之親の子孫も明治になってから眞田姓に改姓しました。
 明治維新後、大部分の苗字のない人が苗字を付けたり、元々苗字があるにも関わらずわざわざ別の苗字に替えたりした人がいる。私の曾祖父・難波周八(高祖・真江田菊蔵の次男)も明治になってから眞江田姓から難波姓に変え、造士館の塾頭になりました。濵﨑家も明治になってから山中姓から濵﨑姓に変えました。
 小林計一郎氏によると、「江戸の徳川幕府に反発する関西では、徳川幕府を苦しめた眞田幸村の人気は高く、眞田幸村の子孫と名乗る人がよくいるが、全て嘘だ」という。真田裕貴選手も大阪出身であるので、この類と思われる。
 眞田六文会の人も「歴史を語る会」で「野球とかサッカーとか、名字が真田だと幸村に結び付けている」と述べている。
 プロ野球選手兼コーチの真田裕貴(さなだひろき)選手が、讃岐の石田氏(細川氏)(眞田幸村の四男・権左衛門之親)と証明されない限りは、眞田幸村の子孫とすることはできません。之親の分家の系統である眞田博明(眞田六文会会長)氏よりいただいた之親の主要な系図を見ましたが、真田裕貴選手の祖父・明人氏は載っていませんでした。眞田博明氏は亡くなりましたので、もっと詳しい系図を知りたかったら、眞田博明氏の長男・眞田博通氏に問い合わせてください。昔の住所と違うかもしれないので、インターネットで検索してください。もしくは、之親の本家の者を紹介してもらってもよいです。
 真田裕貴本人が、祖父・明人氏の言うことそのまま信じて、きちんと調べないのが問題です。おかげで、私にまで、たいへんな迷惑が掛かっています。
 旧漢字の「眞田」なら日本人だが、新漢字の「真田」なら朝鮮人である。まず、戸籍上の字が旧漢字の「眞田」か、新漢字の「真田」かを調べる必要があります。 

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わたしが真田六文会に入らない理由

 投稿者:幸村薩摩落ち伝説の作者  投稿日:2017年 9月 9日(土)23時47分14秒
   眞田博明さんが真田六文会の会長だったときは、真田六文会に入ってもいいかなと思っていました。
 しかし、眞田博明さんが亡くなってからは、自分さえよければいいという真田徹氏がどうも代表のようだ。というか、真田六文会は眞田博明さんが亡くなってから壊滅したようです。松代真田家当主の真田幸俊さんらの真田会しかないようです。真田徹氏のような人間がいるから、真田六文会に入りたくないのです。鹿児島以外の真田幸村の子孫たちとも交流したくないのです。
 大八も存在が怪しいのに、真田幸村の薩摩落ちを否定している。真田徹氏は真田幸村の血をひいていないというじゃないですか。私の一族は確実に真田幸村の血をひいています。真田幸俊さんも真田幸村の血はひいていないとのことです。眞田博明さんや私たちやほかの真田幸村の子孫は真田幸村の血をひいています。真田幸村の血をひいていない真田徹氏が真田幸村の子孫を名乗るのはおかしい。むしろ、真田幸村の血をひいている者の中から代表を選ぶべきです。
 

面倒だから死んだことにした

 投稿者:幸村薩摩落ち伝説の作者  投稿日:2017年 9月 7日(木)22時43分43秒
  真田徹氏の発言からもわかるように、真田幸村生存説を否定するのは、単にめんどくさいからです。
真田幸村生存の資料はたくさんあるため、それを読むのがめんどくさいのです。
政治的には死んでいるのだから、本当に死んだことにすれば楽だからです。
人間は、生に執着して、なかなか簡単には死なないが実態です。
むしろ、死んだとする方が無理があるというものです。
 

成り行きで原稿を書いた

 投稿者:幸村薩摩落ち伝説の作者  投稿日:2017年 9月 7日(木)19時21分48秒
  平成2年、NHKの「歴史誕生」で、三代英雄(源義経、坂本龍馬、真田幸村)不死伝説の一つとして、真田幸村生存説が放映された際、真田六文会会長の真田博明氏の尽力により、鹿児島県南九州市頴娃町別府の大川地区に住んでいる真江田幸一とその母・フクが映像で紹介されました。
 真田幸村の薩摩落ちについて調査していましたが、その一環として学習院大学の名簿で真田幸俊氏に資料を送ったら、真田博明氏が私の職場を訪ねてきて、NHKの「歴史誕生」で放送することを知らせてくれるとともに、真田信之や真田幸村などの家系図などの資料をくれました。ついでに、真田博明さんから真田大助の行方を調査するように依頼されました。
 真田幸村の薩摩落ちについての調査の一環として、「歴史と旅」などにも資料を送ったら、執筆を依頼され、投稿したら、「歴史と旅」の平成6年3月号に掲載されました。
 この記事を見た鹿児島県南九州市頴娃町観光協会の企画委員長が私の自宅に講演依頼の手紙を送ってきました。講演は断ったものの、真田七文会に記事を送ってみたら、新村功さんのkamomax探偵事務所に掲載していただけました。
 それを見て、上田利明氏が職場に嫌がらせの電話をしてきました。訳が分からないので、インターネットで調べたら、上田利明氏はプロ野球の真田裕貴選手を真田幸村の薩摩落ちと結び付けたデマを流していました。そこで、実際のところをを世間に知らせるべく、貴方の真田氏の館・真田三代記などにも詳細版を掲載していただいたりしました。
 また、テレビ東京の番組で鹿児島県南九州市頴娃町牧之内の雪丸地区の真田幸村の墓の写真を放映していただいたりしました。
 大河ドラマで真田丸が放送されてから雪丸の真田幸村の墓に訪れる人も多くなり、最近はBS-TBSの諸説ありでも放送されました。
 

幸村は鹿児島で無名

 投稿者:幸村薩摩落ち伝説の作者  投稿日:2017年 9月 7日(木)15時00分33秒
   鹿児島県南九州市知覧町塩屋に住んでいる私の母の再従姉に「西郷隆盛の子孫ならいいが、真田幸村の子孫じゃだめだよ」に言われています。鹿児島では、西郷隆盛の評価は高いが、真田幸村なんてどこの馬の骨だという扱いです。だから、真田幸村の話はほとんどしません。
 頴娃町観光協会企画委員長が私の「歴史と旅」での記事を示して講演依頼してきたときも、曾祖父が頴娃町で虐められた話を聞いていたので、断りました。自分の身を切って自分が露出してまで頴娃町に尽くすいわれはないからです。
 私は自分の親戚を知らずに育ったので、親戚について調べただけです。原稿も、調査の過程で、成り行きで書くことになっただけです。実は、事実を知っただけで満足しています。
 

反感を抱く者もいます

 投稿者:幸村薩摩落ち伝説の作者  投稿日:2017年 9月 5日(火)12時16分30秒
  新村功氏のkamomax探偵事務所に掲載されていた仙台真田家の真田徹氏がテレビ等に出ています。
真田徹氏の話を否定する記事がインターネットに掲載されていました。
真田徹氏には気を付けていただきたい。
私の曾祖父の難波周八は30代で島津藩の藩校・造士館の塾頭になりましたが、
造士館を退職した後、頴娃町別府の大川に戻り、地元の小学校の校長をしていました。
難波周八は、地元で真田幸村の子孫に対して妬み嫉みを持つ者に虐められたうえ、
自宅を放火され、真田幸村の遺品も焼けました。
難波周八は、晩年は、近くに掘っ立て小屋を建て、読書三昧の暮らしをしたそうです。
そうした経緯も知らず、雪丸の人たちは真田幸村の墓で地元を盛り上げようとしています。
世間とはそんなものです。
 

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